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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <3> 69年ぶりの訪問 藤嶋和子さん 

日銀広島支店で被爆

偶然の地下 命つなぐ

 藤嶋和子さん(69)は、爆心地の南東約380メートルとなった日本銀行広島支店で被爆した。母の背に負われ生後5カ月だった。無論、直接の記憶はない。それどころか「建物が残っていたんや」と、広島市中区袋町に立つ鉄筋3階の外観を見るなり驚きを口にした。取材の求めに応じて69年ぶりに足を踏み入れた。現在は神戸市北区桂木に住む。

 まず2階の資料室で、自らもいた1945年8月6日を確かめた。板壁には爆風によるガラス片が突き刺さった跡が残る。よろい戸を開けていたため全焼した3階内部や、廃虚と化した市中心街の写真も食い入るように見た。「思うてたよりもずっと被害がひどい」。沈痛な表情を浮かべた。3階にあった広島財務局では12人が、日銀職員は8人が犠牲となった。

 続いて、金庫室などがあった地下に下りた。母の富岡キクさん=当時(32)=に背負われて下りた場所でもある。「地下に入ってへんかったら、今こうしてここにおれへん」。母から聞いた8月6日をたどった。

姉2人不明のまま

 あの朝、母は戦時債権を現金に換えようと寺町(現中区)の自宅から三女の和子さんをおぶって支店を訪れ、建物の外で開店を待っていた。すると、「食堂の女性が『暑いでしょう』と声を掛け、涼しい地下に入れてくれたそうです」。母子はガラス片で肩などに傷を負っただけで助かった。

 もっとも、母から聞いた話は直後に比治山へ逃げたくらい。「あまり話したがらなかったし、私も聞きにくかった」。広瀬国民学校に通っていた長女澄子さん=当時(7)=と、外出するため隣家に預けていた次女広子さん=同(4)=は、遺骨もはっきりしなかった。

 母子は、戦時徴用船の乗組員から戻った父と宇品町(現南区)に転居し、弟が生まれた。だが、和子さんが物心ついてからの母は、「体が弱く、ほぼ一日中寝ていて、申し訳なさそうにしていた」という。

頭痛に苦しめられ

 代わりに小学生のころから料理に買い物と家事を担ったが、頭痛にしばしば苦しめられた。ガラス傷は夏には半袖からはみ出るほど目立った。宇品小にABCC(現放射線影響研究所)のハイヤーが迎えに来て何度も検査を受けた。

 11歳の時に父の仕事で兵庫県尼崎市に転居。高校卒業後に勤めたくぎ製造会社で、夫となる靖さんと知り合う。頭痛は成人後も続き、デートを途中で切り上げたこともあった。「被爆のせいやろか」。その不安に靖さんは手紙でも気遣ってくれ、23歳で結婚した。

 しかし、1男1女を授かって間もない31歳の時に倒れた。脳出血だった。1カ月の入院治療を受けても左半身にしびれが残り、自宅で伏せる日々が続いた。

 母キクさんは96年に皮膚がんが見つかった。和子さんが自宅で布団を並べて手をつないで寝て起きると息を引き取っていた。84歳となる誕生日でもあった。

 袋町の支店は92年まで業務に使われ、2000年に広島市重要文化財に指定。市民の文化活動の展示場として活用されている。原爆の惨禍に遭った旧支店は、爆心地500メートル以内の被爆生存者78人(72年時点)のうち、22人が奇跡的に助かった場所でもある。

 「記憶がなく、被爆者という意識は薄い」と和子さんは言う。しかし被爆からの半生が始まった場所を69年ぶりに訪ねた帰路、感慨を込めてこうも語った。

 「母は姉2人も日銀へ連れて行けばと悔やみ、悲しんでいたと思います」。夫を7年前に見送り、今は孫5人の訪問を心待ちにする。いつか孫たちに広島を訪れてほしい。胸に温める願いを吐露した。

(2014年6月16日朝刊掲載)