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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <3> 免れた「全滅」 農村出動 秘した疎開

 「戦ひ抜く陣地の構築だ」。広島市の第6次建物疎開作業は1945年7月26日に始まった(中国新聞45年7月28日付)。「敵機来襲」に備え、デルタに大規模な「避難広場」を設けようと少年少女の学徒も大量動員された。

 原爆は8月6日、その頭上でさく裂した。中島地区(現平和記念公園)、小網町、鶴見町…。各中等学校の「報国隊」はおびただしい死を強いられた。その大半が1、2年生だった。学徒犠牲者約7200人のうち82%が作業に動員されていたとみられる(原爆資料館の2004年調査)。

負い目「自分だけ」

 「なぜ、自分たちだけは全滅を免れたのか。負い目があり、記録するまでに長い年月を要しました」

 高田勇さん(83)=南区段原南=はそう話し、新井俊一郎さん(83)=同区東雲本町=と顔を見合わせた。共に保存する広島高師(現広島大)付属中1年時の日記から戦時下の日々を掘り起こし、「昭和二十年の記録」(84年刊、377ページ)を同級生らと編んだ。

 付中1年生も入学1カ月後に陸軍施設などへの動員が始まった。報国隊の結成式を7月8日に行うはずが、なぜか延期される。そして17日。「遂(つい)に我等(われら)、付中一年生の農村出動が決定した」。新井さんの日記からも学徒のひたむきさや意気込みが浮かび上がる。

 1年生約100人は20日、原村(現東広島市)へ出発する。国が前年に設けた「科学特別教育学級」に選ばれた35人は既に9日、同学級2、3年生と東城町(現庄原市)へ向かっていた。

 この「農村出動」には、一部教諭らの秘めた狙いがあった。「広島市内にとどめることの危険を強く感じ、科学組の東城疎開にあわせて正規組の一、二年生を農村手伝いに出そうと」なった。「昭和二十年の記録」は、動員担当教諭だった宮岡力氏の手記から学年ぐるみの疎開だった内実を明らかにしている。

 空襲は近隣の呉など全国の主要都市で激しさを増していた。宮岡教諭らは受け入れ先を求めて県内を回り、1年生は教諭の実家があった原村の寺社に分散宿泊し、2年生は保護者の尽力で戸野村(現東広島市)へ疎開に至ったのだ。

 不慣れな農作業に励んだ高田さんと新井さんは、原村からの帰省5人に選ばれ8月6日、広島へ向かう。八本松駅で「ものすごき光と共に猛煙の立ち上る」(「新井さんの日記」)光景を見たが、学校に届ける文書を託されていた。

小学校時代の級友

 高田さんは8日、父肇さん=当時(52)=の変わり果てた姿を鉄砲町(現中区)の自宅跡で見つけた。母嘉子さん=同(44)=と長兄正弘さん=同(22)=も間もなく逝った。

 新井さんは家族は助かったが、国民学校時代の級友らの死に衝撃を受ける。原村でも書き続けた日記帳は、広島一中へ進んだ正木義虎さん=同(13)=から譲られたものだった。

 戦後は互いに原爆体験を語ることを避けた。付中は「逃げた」という心ない見方もされた。生き残った1年生は多くが、高度成長を担う立場にも就いた。

 だが50歳を過ぎ、「全滅した他校の一年生とは/小学校時代の級友なのだ」との思いにかられ「昭和二十年の記録」を編む。病弱などのため広島にとどまった同級生10人の原爆死も突き止めた。同窓会に働き掛け2005年、南区翠の母校に原爆死没者・戦没者を悼む碑の建立にも努めた。

 以来、新井さんは証言活動を続けている。「戦争を知らない政治家の危うい発言が増え、黙っていられない」と言う。高田さんは表だって語ることはないというが、「戦時体制下でも生徒の身を案じ、行動した先生方の冷静な判断を伝えたい」と今回、取材に応じた気持ちを話した。

 学徒の死を「悲劇」にとどめるのではなく今に続く戒め、教訓とする。2人に共通する思いでもあった。

(2015年6月22日朝刊掲載)