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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ② 名称も消えた町 水主町・材木町(現中区中島町)

 原爆は、幾多の人命を一瞬のうちに奪っただけではない。生き残った人々は、家族との絆を無残にも断ち切られた。それまでの暮らしを根こそぎはぎとられた。廃虚となった広島デルタで身一つとなった人々は、生活再建のため生まれ育った町を離れるしかなかった。復興事業の柱となった土地区画整理が進むと、いにしえの町名も消えた。水主(かこ)町、材木町、尾道町、平田屋町…。118万都市広島の中心街には、ゆかりの人々の記憶と遺品に刻まれた古里が眠る。(「伝えるヒロシマ」取材班)

生きた証し 悲しくて懐かしい

 広島市西区古江西町に住む玖島富喜子さん(79)にとって、平和記念公園は悲しみと懐かしさが入り交じる地である。「普段は思い出したくないから避けて通っています」。公園となった旧材木町で母と姉は原爆死した。求めに応じて公園のベンチに座ると、「一番幸せだった」という少女のころの記憶があふれ出た。

 玖島さんは公園南の旧水主町で生まれ育った。自宅向かいは県庁や県病院の敷地が広がり、浅野藩時代に築庭された与楽園があった。日米開戦後も園内を駆け回り、野花を摘んだ。「県庁橋」と呼んでいた万代橋が架かる元安川で夏になると泳いだ。4人きょうだいの末っ子だった。

 しかし、戦況の悪化が襲いかかる。中島国民学校(現中島小)5年生となった1945年4月、三良坂町(現三次市)の正法寺へ集団疎開した。「家族が恋しい」日々。今も大切に残す手紙には、「毎日ふき子さんのうわさばかりしております」「勝利の日迄(まで)やりぬきませうね」と寄せられていた。

 母トメさん=当時(44)=は「私の好物の巻きずしを作って7月に来てくれ、にこにこしながら食べるのを見ていました」。姉博枝さん=同(20)=も来た。それが2人との別れとなった。

 水主町の県庁周辺は空襲に備えて、市の第6次建物疎開作業が7月下旬から本格化する。一家が引っ越したのが材木町だった。

 8月6日朝、母と姉は移転先の自宅にいたとみられる。父円助さん=同(50)=は、長兄利昭さん=同(18)=が進学した京都を訪ねていた。急きょ戻り捜したが遺骨は見つからなかった。

 玖島さんは集団疎開から帰ると、広島駅から親戚がいた古田町(現西区)まで歩いた。西練兵場(現県庁一帯)では焼け焦げた馬が横たわり、背中の皮が垂れ下がった人たちが水をくんでいた。親戚宅では、雑魚場町(現中区国泰寺町)の建物疎開作業中に被爆した山陽中1年の次兄正文さん=同(13)=が寝ていた。8月24日に死去した。

 戦後は親子3人で生きた。父は趣味の茶道具の仲買人となり、玖島さんはお茶を習い支えた。76年に長兄を、89年に父をみとった後は一人で暮らす。

 自宅では、父が移転先跡で見つけたとっくりに花を生ける。溶けたガラス瓶などは生前に原爆資料館へ寄せたが、ひびが入ったとっくりは接いで使い続けた。「母たちも触れた品。手放しがたかったのでしょう」。続けてこう語った。「私がいなくなり、壊れたらかわいそう」。家族と共に生きた証しのとっくりも託そうと考えている。

(2014年3月3日朝刊掲載)