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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <1> 死亡届 220枚 10代の犠牲刻む

 原爆で行政機能も壊滅した中での「死亡届」を進徳女子高(広島市南区)は保管する。紙を手に取ると破れそうな220枚余。多くが1945年11月前後に作成され、生徒教職員の遺族から聞き取ったとみられる。

 13歳だった「堀美智子」さんの名前も残る。「遭難場所」は当時、南竹屋町(現中区)にあった進徳高女の校庭とある。「昭和二十年」に続く欄の死没日は空欄。遺族は「堀才人(ちえと)」とあった。

 「姉を捜し歩いた父(才人さん)も3年後に42歳で死にました」。堀一明さん(82)=東広島市西条西本町=は、初めて目にする「死亡届」に視線を落とした。「愛くるしい笑顔が忘れられません」。松長(旧姓九十九(つくも))静子さん(83)=中区橋本町=は、仲の良かった同級生の面影を語った。共に千田国民学校(現中区の千田小)から進徳高女に進んだ。

 一明さんは姉の学徒時代を、松長さんは友人の最期を確かめようと連れだって進徳女子高を訪れた。学校も特別閲覧に応じた。

「戦争に勝つから」

 松長さんは、今も思い出す光景がある。美智子さんと日本舞踊と軍歌を講堂で披露した。米英と開戦3周年の44年12月8日の「大詔奉戴日」、軍需工場などに通年動員されていた上級生が久々に登校した慰労会だった。「戦争に勝つんだから」と練習にも励んだ。

 美智子さんたちも2年生になると、広島地方専売局(現南区皆実町)でたばこの製造補助や、近郊の農作業への動員が続いた。

 一家は、才人さんが勤める陸軍被服支廠(ししょう)の疎開事務所が現東広島市に設けられ45年5月から順次移る。千田国民学校6年の一明さんは集団疎開をしていた。長女美智子さんは、校舎そばの寄宿舎に入りとどまった。

 45年8月6日、2年生は鶴見町(現中区)への建物疎開作業に向かうため校庭に集合する。爆心地から約1・4キロだった。

 「寄宿舎生ノ父兄ハ鍬ヲ携行其(その)遺骸ヲ求ム、目ヲ蔽(おお)フ」(8月9日)。当時の渡辺弥蔵教頭が記し、保管される「教務仮日誌」からも惨状が浮かび上がる。

 進徳高女は、2年生196人をはじめ生徒405人が犠牲となった。

 美智子さんは両親が9日、南区出汐に現存する被服支廠倉庫で見つけたが息絶えていた。「姉は『お父ちゃんじゃないの』と周りに尋ねていたと母は聞き、もう少し早ければ…と悔やみ続けました」

 一明さんは、母シズエさん(2003年に91歳で死去)が悔やみ続けた美智子さんの8月5日の様子も語った。美智子さんは動員が休みで、母の疎開先を訪ねた。「珍しく弱音を吐き、母を振り返りながら広島へ戻ったそうです」

 松長さんは、母の代わりに出た南千田町(現中区)の建物疎開作業中に被爆。1週間後、おびただしい骨を校庭で5人ほどの生徒や先生と拾い、慈仙寺(現平和記念公園)に運んだ。

 助かっても原爆に襲われた。39歳で乳がんとなり切除手術。同じころかかった同級生は死去した。「何か役に立ちたくて」。言葉に尽くせぬ思いに駆られ、50代から証言を始める。3年前には外務省の「非核特使」を委嘱され世界を回る旅にも参加した。

記録の公開を願う

 小学校教諭だった一明さんは、疎開体験や姉の死を語ってきた。姉たちの「死亡届」に触れて「生かしてほしい」と公開を願った。父母や友、教師の悲しみも刻んでいると思うからだ。  松長さんは一明さんの話を聞いて美智子さんの最期を知った。4年前に死去した夫は海軍予科練習生に志願していた。「戦争はいけない」と生真面目に、「体力の限り語り続けたい」と笑みを浮かべ話した。

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 「生と死も紙一重だった」。被爆学徒の体験を通じ過去と未来を考える。

(2015年6月8日朝刊掲載)