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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 <17> 被爆学徒 生き残り…拭えぬ負い目

 かつて少年少女は「挺身(ていしん)国家緊要の職務」を命じられた。学徒勤労動員である。1945年8月6日投下の原爆により、広島の学徒は全国で類をみない犠牲を強いられた。生き延びた人たちは年少でも80代半ばが近づく。戦時下と原爆の実態を肌身で知る、数少ない証言者でもある。「死んでいった人たちに申し訳ない」。口を閉ざしがちな被爆学徒や知られざる記録をたどり、「あの日」から今日に続く意味を探る。(「伝えるヒロシマ」取材班)

■慰霊塔

「国のため」 信じ倒れた

 高さ12メートル。5層の動員学徒慰霊塔は原爆ドームの南側に立つ。「あたら青春の光輝と学究の本分を犠牲にしつつ挺身した」と碑文にありし日を刻む。広島県動員学徒犠牲者の会が67年に建立した。毎月の清掃と献花を今も続ける。

 土井通哉さん(82)=安佐南区上安=は足腰が衰えても欠かさず参加する。「仲間たちの尊い犠牲が礎となり、平和が築かれたと思えてなりません」。県立商業学校(県商、現広島商業高)1年生の夏に被爆した。県商生徒の原爆死は133人を数える。

 現在の中学生から大学生に当たる少年少女は、文部省が44年3月に出した「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、軍需工場や農村へ「勤労其(そ)ノ他非常任務ニ出動」となる。戦況の悪化から青壮年男性を根こそぎ召集し、労働力が不足していた。

 広島では同年6月から通年動員が始まる。県は「男子は十時間を原則とし残業の場合は十二時間を越えぬこと」「女子は十時間以内」と各校に通達した。

 土井さんも入学すると「県商報国隊」として、工兵隊(現東区)で木材を積み降ろし、市郊外での農作業に連日出る。弾薬庫づくりとみられた山中の作業では級友が落盤により死亡した。それでも、たたき込まれた「滅私奉公」の考えは揺るがなかったという。

 45年8月6日、広島デルタでは第6次建物疎開作業が進んでいた。米軍の空襲に備え、東の鶴見町(現中区)から西の小網町(同)まで最大19万8千平方メートルの防火地帯を設けようと学徒も大量に動員された。

 県商1年生は、市役所近く雑魚場町(現中区国泰寺町)の建物疎開作業に出動するため皆実町(現南区)の校庭に集まっていた。土井さんは気がつくと背中を焼かれていた。

 学徒死没者は、52年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され「準軍属」とみなされる。最愛の子を原爆に奪われた父母らは57年に会を結成し、軍人・軍属並みの遺族年金支給や靖国神社への合祀(ごうし)を求めた。名簿作りには県も協力し、63年から合祀された。

 「母は『功が生かしてくれとる』と死ぬ前月まで慰霊塔を清掃していました」。会理事長の井上公夫さん(79)=西区小河内町=は、99年に90歳で逝った母ヨシエさんの思いを引き継ぎ2008年から務める。市立中(現基町高)1年だった功さん=当時(13)=は小網町一帯の建物疎開に動員され犠牲となった。

 会員は70年代までは5千人を超えていたが、現在は千人を割る。犠牲者のきょうだいや元学徒からなる。親世代の靖国参拝などの活動から今は記憶の継承に重点を置く。学徒や遺族83人の手記を集めて07年に刊行した「慟哭(どうこく)の証言」を、会のホームページに一昨年から掲載する。英訳も順次、発信している。

 会の結成にかかわった副理事長の寺前妙子さん(84)=安佐南区高取南=は、進徳高女3年の夏に爆心地から550メートルの広島中央電話局で被爆し、左目を失明した。多くの級友が犠牲になった。その体験から市の「被爆体験伝承者」講師も務め、受講生が慰霊塔の清掃に加わるようになった。

 日本の進路を大きく変える安全保障関連法案が国会審議される中での被爆70年。

 土井さんは「外国の脅威や自衛が盛んにいわれ、『あの頃』に近い空気を感じる」と危惧する。寺前さんは「『お国のため』と信じたのに将来を奪われた。亡き学徒たちも『戦争は繰り返してはならない』と訴えるのではないでしょうか」と語り掛けてきた。

 広島市と会の59年の共同調査では、学徒は建物疎開作業に9111人、工場に1万4143人が動員された。積み上げられた調査で学徒原爆犠牲者は7196人を数える。

■生徒原爆死666人

慰霊祭参列 命ある限り

 セーラー服とモンペ姿の少女を花輪とハトを抱いた友が囲み、原子力を表す「E=MC²」と彫る。広島市立第一高女(市女、現舟入高)の慰霊碑である。中区の平和記念公園の南側、元安川右岸に立つ。

 市女は原爆で最多の学徒死没者をみた学校だ。銘板には生徒666人と教員10人の名を刻む。うち541人は、碑がある一帯の建物疎開作業に動員されていた1、2年生からなる。

 高木(旧姓吉積)登志子さん(83)=東区矢賀新町=は、「私もこの辺りで壊された家屋の瓦や木材を運び、『また明日ね』と別れました」と振り返る。1年6組に在籍していた。

 翌8月6日も作業現場に出た生徒は、爆心地から500メートルの内外にいた。現存する「市女経過日誌」当日の項は直後の惨状をこう記していた。

 「多クハ現場ニ失明状態ニテ昏倒(こんとう)/新橋(現平和大橋)、新大橋(同西平和大橋)ニ向ヒ水ヲ求メテ移動、河中ニ飛ビ込ム濠(ごう)ニ入レル者又多ク、水槽ニ入レル者尠(すくな)カラズ/似島ニ搬送サレシ者モ少数算セラル但(ただ)シ生存者ハ三・四名ニ止マリ…」

 だれ一人助からなかった。

 1年生277人の原爆死を追った「遺影は語る」(中国新聞2000年6月22日付)では、遺族の協力を得て確認できた243人のうち、76%となる184人は遺骨すら見つかっていなかった。

 舟入川口町(現中区)の市女は半壊した校舎を教職員と生徒が修理し、45年9月18日に授業を再開する。

 「経過日誌」同20日の項には「一ノ六 吉積」と1年生でただ一人出席の名前が残る。10月10日時点の「生存」1年生は26人だった。

 高木さんは、助かったのは「偶然」としか思えないという。左官町(現中区本川町)から安村(同安佐南区相田)に疎開していた。8月6日朝は自転車のタイヤの空気が抜け、歩いて向かおうとしたが、体調を気遣う母に止められた。

 8日、父と爆心地に近い自宅跡に入り留守を預かっていた叔母の遺体を弔った。「生きとらんといけん、ということじゃったんかね」。廃虚の中でそう言い聞かせても、級友の死に顔向けできない気持ちがうずいた。

 作業現場跡近くの西福院で営まれた追弔会では、「うちの子は死んだのに…」といわれたこともあった。それから40年近く、8月6日の慰霊祭を避けて市女の碑に参るようになった。

 碑は、父母ら遺族会が占領下の48年いち早く校内に建立し、十三回忌の57年ゆかりの現在地に移設。85年、舟入・市女同窓会が銘板を碑のそばに設けた。

 「生きていた証しを残してあげたかった」と設置に努めた一場不二枝さん(93)=中区江波栄町=はいう。母校の市女教員となり、専攻科生徒の缶詰工場への動員を引率していた。舟入高が受け継ぐ関係書類から銘板に刻む名前を確かめた。

 一場さんは「命ある限りは」と慰霊祭に参列する。高木さんも今は8月6日を碑の前で祈る。後輩や在校生が準備から当日の吹奏楽と運営を担ってくれるのを心強く受け止める。

 舟入高は、当時2年6組だった矢野(旧姓池田)美耶古さん(84)=西区古江西町=を10年前から招き、体験を語ってもらっている。今年は7月16日に開く。同窓会は被爆70年記念誌の編さんを進める。

 「平生から教える。受け継いでくれる人がいて歴史は残る。ありがたい」。一場さんの言葉に、高木さんはうなずきながら複雑な胸のうちものぞかせた。舟入高卒業生でもある次男の妻と原爆が話題になったが、「詳しく話す気持ちにはなれなかった」という。

 被爆体験を進んで語るとなると今もためらいを覚える。鎮魂の強さの分、負い目は拭えない。

(2015年6月8日朝刊掲載)