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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ⑩ 現存の診察記録 原爆症 手探りの闘い

 人間の頭上で1945年8月6日にさく裂した原爆は、以降も生存者の心身をさいなむ。今に続く原爆症である。「原爆の爆風・熱線・放射線が人体に与えた総合的障害」(「核放射線と原爆症」)の治療は手探りから始まった。国の援護は57年の旧原爆医療法施行までなかった。「空白の10年」とも呼ばれる期間、被爆者や医師は病魔にどう立ち向かったのか。現存していた、直後と初期の診察記録を手掛かりに「空白期」からを追う。(「伝えるヒロシマ」取材班)

頭髪の抜けた姉弟

45年10月6日の白血球数。 正常値へ戻っていたのに…

血液は回復しなかった

 国内外からの来館者が昨年度は138万人を数えた広島市の原爆資料館で、多くの人が足を止める展示写真がある。「頭髪の抜けた姉弟」と題し、撮影は「45年10月上旬」とある。急性放射線障害を伝える歴史的な記録として数々の書籍でも紹介されている。

 名前は記されていないが、池本アイ子さん、池本徹さんという。被爆時に姉は9歳、弟は7歳だった。

 撮影時の姉弟の白血球数の記録が、広島赤十字・原爆病院にあった。6号館標本室で保存する「白血球算定簿」の45年10月6日に記されていた。

 姉は「七二〇〇」、弟は「八二〇〇」と算定されている。血液1立方ミリ当たり4千未満が減少症であり、脱毛をみても白血球数は正常値へ戻っていたといえる。

 だが、徹さんは11歳で、アイ子さんは29歳で亡くなっていた。

 両親や兄弟も他界している。亡き三男の妻池本美恵子さん(73)=中区南千田西町=が、2人の早すぎる死について取材に応じた。受け継ぐ45年8月7日記載の一家の「罹災(りさい)証明書」などを仏壇から取りだした。

 6人家族で舟入町54番地(現中区)に住んでいた。8月6日、母タメ子さん=当時(38)=は三男明さん=同(4)=を連れ、広島高師付属中1年の長男=同(12)=が農村動員された原村(現東広島市)を訪ねようと広島駅で被爆。自転車で向かっていた父友一さん=同(40)=が引き返し、神崎国民学校に通う2人を捜した。

 疎開していなかった舟入町の児童は、「みはらし湯」が登校先だった(「広島原爆戦災誌」第4巻)。戦前の電話番号簿によれば銭湯は「舟入町15番地」にあり、爆心地からほぼ1キロの距離である。

 タメ子さんが生前に語ったところによると、2人は被爆から1年たつころから体調を取り戻したという。

 徹さんが倒れたのは49年春。小学6年の遠足から帰宅すると立てなくなった。両親は医療費5万円を工面し、高価なペニシリンも打ってもらった。首相の月額給与が4万円の時代だ。しかし6月、大手町(現中区)の自宅で死去した。

 アイ子さんは、米国が設けたABCC(原爆傷害調査委員会、現南区の放射線影響研究所)の検査対象になっていた。基町高へ進み、卒業後は中国電力に勤めながら22歳で結婚。2年後には男児を授かった。だが65年1月、広島大付属病院で息を引き取る。

 「髪は回復しても、血液の状態が回復せず多くの方が死んでいきましたね」。血球算定器が2本しかない中から原爆症に迫り、後に初代原爆病院長を兼務した重藤文夫さん(82年に79歳で死去)はそう回顧している(「原爆後の人間」)。

 被爆による白血病は約2年後から始まり急増した。発現率を、広島赤十字病院の山脇卓壮医師(2006年に84歳で死去)が日本血液学会で公表できたのは米軍の占領統治が明けた52年だ。

 「徹さんは脊髄をやられていたそうです。アイ子さんは右足のももがひどく腫れ、両親は最期まで付き添いました。『原爆のガスを吸ったんじゃ』と死ぬまで悔しがっていました」。美恵子さんは、みとった義父母から聞いた話や思いを淡々と明かした。

 友一さん夫婦が中高生の下宿を営み住んでいた南千田西町の自宅は89年に火事となり、大切にしていたアイ子さんの花嫁衣装も焼けてしまったという。友一さんが携えたとみられる「あの日」の罹災証明書と、再び入手したアイ子さん徹さんの遺影を仏壇に納めた。

 遺影は「頭髪の抜けた姉弟」である。原爆症に襲われながらも生きていた証しであったに違いない。友一さんは90歳、タメ子さんは92歳まで生き抜いた。

私製の「被爆者健康手帖」

医師の使命感 援護を先取り

 その私製の「被爆者健康手帖(てちょう)」は、広島市中区千田町の広島原爆障害対策協議会(原対協)の資料室ロッカーにあった。10部が現存する。国の交付に先駆け、健康診断と治療を押し開けた原爆手帳だ。内科医の中山広実さん(1913~2005年)が56年に作り、開業していた段原地区で配った。

 「確かに私たちです」。山田清三さん(81)=南区段原=と弟の茂夫さん(74)=広島県熊野町=は、それぞれの名前が残る手帳を確かめ、自らの症状に目を凝らした。はがき大8ページ。56年8月30日に受けた血液検査の結果も記されていた。

 45年8月6日、広陵中1年生の清三さんは、建物疎開作業に動員された比治山橋東詰めで被爆した。手帳の「外傷、熱傷」欄には、「顔左側、左手、左腹部」とある。「自宅へ逃げ帰ると、おふくろが『誰か?』と問うたほど。どこで工面したのか、食用油を塗ってもらったのを思い出します」。茂夫さんは旧段原東浦町の自宅で飛んできたガラス片により胸を切った。

 手帳からは、清三さんが「嘔吐(おうと)」「下痢」などの急性障害に陥ったことも分かる。家族9人のうち8人が被爆し、姉の静枝さん=当時(14)=は遺骨すら見つからなかった。

 両親は所有の土地や貸家を手放し、清三さんも焼きせんべいを売り歩いた。生活苦は10年は続いたという。延焼を免れた段原地区は、家財を失った被爆者の転入が多かった。兄弟は「どこも貧しく苦しいころを耐えられたが、急に亡くなる人も多かったのが不気味でした」と顔を見合わせた。

 軍医だった中山さんが復員して旧段原新町で開業したのは46年。「寡黙で仕事一筋の父でした」。長男で精神科医の純維(すみふさ)さん(63)=東区牛田早稲田=は、生前の素顔をそう語る。

 中山さんは、ケロイド手術に取り組む外科医の原田東岷さん(99年に87歳で死去)、呼吸器系のがん多発を明かす内科医の於保源作さん(92年に87歳で死去)らと定期的に集まり、原爆症についての研究を占領期から重ねていった。

 「原爆タブー」が解かれた翌53年1月、広島の医師たちは県、市と原対協を設立し、市民病院で診察会に乗り出す。54年からは毎月の合同診察会を始めた。

 理事を務めた中山さんは内科面を担う。結婚・就職差別にも直面していた被爆者の不安解消や病気の早期発見を、と健診の重要性を提唱。「現在の原対協では経済上および施設上の両面においてその実現が不可能」(「広島市医師会史」第2編)とみて、診療地域の段原地区で手がけた。国の援護はなく、原対協の活動費はNHKが呼び掛けた「原爆障害者たすけあい運動」への募金などが頼みだった。

 被爆状況から現症までを1枚紙の「原子爆弾被爆生存者調査票」に記し、調査内容を転載した手帳を番号を付けて配った。表紙の裏には「此(こ)の手帖を持つて行けば、何時(いつ)でも、何処(どこ)ででも無料で健康診断や検査がして貰(もら)へます」と印刷した。

 異常が見つかれば原対協の承認を得て治療を受けられる仕組み。まさに被爆者援護を先取りしていた。

 中山さんは、原爆医療の始まりを79年に語った座談会(「ヒロシマ医師のカルテ」収録)で、原対協が認めた患者は「タダで診てましたね」と述べている。原田さんは「とにかくそれをしなきゃあいけないという使命感があった」と担った医師たちの胸中を表した。

 段原地区は今春、40年に及んだ再開発事業が完了した。清三さんは「被爆した住民の多くも亡くなったり移ったりと、様変わりしました」という。自身は年2回の被爆者健診を欠かさない。12年前には大腸がんが見つかった。地区は一新しても被爆者の「戦後」はまだ、続いている。

(2014年11月3日朝刊掲載)