×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <7> 健在の「殉職者」 碑に名前 生き抜いた

 広島市安佐北区口田南に住む斎藤隆重さん(83)は、取材の求めに応じて今夏、南区比治山町の多聞院にある碑を訪ねた。孫の塩見雅治さん(25)=西区三滝本町=を初めて伴った。

 「出勤していれば死んどったでしょう…」。碑の前で孫にも語り始めると、こみ上げる思いから言葉が途切れた。「広島郵便局原爆殉職者之碑」に刻まれる288人には「斎藤隆重」さんの名前もある。本川国民学校(現中区の本川小)高等科2年生だった。

 国民学校高等科は政府が1944年に公布した「学徒勤労令」により動員へ編入される。さらに翌45年4月からは初等科を除き授業は原則停止となっていた。

大八車引き集配も

 広島郵便局は細工町(現中区大手町)にあった。「通信戦士」となった斎藤さんは午前8時ごろ出勤し、郵便物を大きな肩掛けかばんに収めて担当の己斐地区(現西区)を中心に配達して歩く。午後からは職員と小包を乗せた赤い大八車を引き、紙屋町から鷹野橋方面(現中区)にかけて回り集配もした。

 住まいは現在は平和記念公園の材木町だった。母は産後間もなく逝き、父も病死。脱脂綿製造を営む伯父夫婦宅で祖母や姉、兄と暮らしていた。

 8月6日は、知人を訪ねた伯父に連れられて岩国市にいた。翌日昼に戻り、爆心地一帯へ入る。親族の疎開先や救護所を回り1週間後、兄は捜し当てた。

 だが、祖母木村イチさん=当時(65)、伯母木村キミさん=同(46)、姉斎藤喜久江さん=同(17)、帰省していた叔父木村文夫さん=同(24)=は見つけられなかった。「焼け跡で遺骨を拾ったが家は人の出入りも多く、家族のものかどうか分からなかった」という。

 れんがと瓦屋根を組み合わせた3階建ての広島郵便局は、爆心地ゼロメートルの島病院の筋向かいにあった。墓標は焦土の局舎跡に建てられたが、広島復興のための土地区画整理事業が始まると移転を迫られる。そして53年、殉職者名を刻んだ碑が多聞院に建立された。

 追悼誌「碑(いしぶみ)」(77年刊)でも、斎藤さんは「八月六日」に「広島郵便局」で「死亡」となった。職員222人、現安佐南区にあった祇園高女から動員されていた48人(引率教師を含む)、本川高等科16人(同)の名前とともに記載されていた。

 それを知ったのは2000年。爆心地一帯の死没者を追った中国新聞の特集「遺影は語る」の取材を受けた。同じように名前が刻まれた同級生(2003年死去)と再会もした。

 生きているのに「死亡」となった被爆後を、碑の前でこう語った。

 「暮らすことに精いっぱいでした」。学校へも郵便局へも戻らず働くしかなかった。広島鉄道局(現JR西日本)などを経て現西区のゴム部品製造会社に就職する。61年に家庭を持ち、娘2人を授かった。定年まで30年余り勤め上げた。今は孫も5人いるという。

「受け継いでいく」

 「碑にある私の名前を削ってほしいとは思いません。生き抜いた証しだと思う」。祖父の胸中を孫の雅治さんはじっと聞いた。会社員となるまでは一緒に暮らしていた。

 祖父は家族の間でも口数は少なく原爆体験はほとんど話さなかったという。爆心地となった旧各町を訪ねる「ヒロシマ・フィールドワーク」の会合で一昨年、証言するのを知り参加した。東日本大震災と福島第1原発事故の「3・11」をみてから祖父の体験に関心を寄せるようになった。

 「体験した者が話しておかんと」。斎藤さんは人前で証言をした思いもとつとつと語った。「家族だからこそ受け止められる、受け継いでいけることがあると思います」。雅治さんは祖父の思いをそうつないだ。

(2015年7月20日朝刊掲載)