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連載 被爆70年

[ヒロシマは問う 被爆70年] 平和教育の今

 原爆被害についての学びを柱としてきた被爆地の平和教育は、あの日から70年を迎え、変質してきている。被爆や戦争の傷が「肌感覚」として身近だった世代の教員は学校現場を退き、次世代が子どもたちと向き合う。広島でさえ平和学習の時間が少なくなったといわれて久しい。ただその中で、若い世代が被爆者の実感を追体験し、自らの表現方法で国内外に伝える試みもある。風化にあらがう現場の取り組みを見る。(道面雅量、金崎由美、田中美千子)

追体験 風化にあらがう

私なりの継承。高校生が署名携え国際会議に挑む

 核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が4月27日から米ニューヨークの国連本部で開かれている。各国から現地入りした市民や被爆者が、核兵器廃絶に向けた「誠実な交渉」を加盟国に直接迫る貴重な機会。中でも被爆地の若者による発信は存在感を示した。

「伝える義務」

 平和首長会議によるユースフォーラムに長崎の大学生たちと参加した、広島女学院高(広島市中区)と修道高(同)、盈進(えいしん)高(福山市)の8人。沖縄尚学高(那覇市)も加えた4校の生徒たちは、8年前の「中高生平和サミット」開催をきっかけに、共同で核兵器廃絶を求める署名活動を続けている。今回、国連軍縮部のバージニア・ガンバ次席上級代表に、この1年間に集めた約4万4千筆の署名も手渡した。

 「被爆者の声を直接聞き、核兵器廃絶の願いを胸に刻んでいる。広島で生まれ育った私たちには彼らのメッセージを伝え続ける義務がある」。盈進高3年の坂本知彦さん(17)と1年作原愛理さん(16)は、これまでに出会った被爆者の体験談を織り込み「戦争と核の恐怖という連鎖」を断ち切ろうと訴えた。

 高校生たちが大きなテーマにもひるまず、国際会議の場へ向かう支えになっているものは―。盈進高のヒューマンライツ部の活動から、浮かび上がるものがある。作原さんも部員だ。  同部はハンセン病元患者との交流や福山空襲の体験聞き取り、福山市内にあるホロコースト記念館での活動にも力を注ぐ。新聞記事を輪読し、意見を出し合う。戦争中の日本の加害についても学ぶ。

 「生命や人権が理不尽に奪われることのない世界を目指す。その一つに核兵器の課題もある」と、顧問の延和聡(のぶかずとし)教頭(50)。多様な現場で広い視野を養う平和教育が、核兵器廃絶の訴えにも普遍性を与えると信じる。

 核兵器廃絶の署名集めは、同部と生徒会が主導し、学校全体で取り組む。代表2人のニューヨークの大舞台も、全校生徒の地道な活動の延長線上にある。

 署名用紙を挟んで生徒と向き合い「私たちに成り代わって訴えてくれ、ありがとう」と涙を流す被爆者もいた。「あの日、父母やきょうだいを失った。初めて話せた」と打ち明ける被爆者もいた。逆に「意味がない」「核兵器はなくならない」と言い放つ人もいたという。

 作原さんは「小さな活動でも続けることが大事」と言い切る。街頭に立つことは、自分なりの体験継承と感じている。

米露の生徒と

 再検討会議に先立つ4月2~4日、広島女学院中・高では高校生の国際会議「クリティカル・イッシューズ・フォーラム(CIF)」が開かれた。米国とロシア、日本の生徒34人が参加。核兵器の非人道性と廃絶をめぐり、英語で意見発表した。

 原爆で300人を超す生徒と教師が犠牲になった広島女学院高。普段からその歴史を学んでいる生徒が、母校の被爆にまつわる体験記の朗読も挟み、核兵器の非人道性を説いた。どうしても机上の議論になりがちな米ロの生徒に対し「原爆の問題が自分自身のことだと知ってもらいたいと思った」と3年の竹里明莉さん(17)。

 安田女子高から参加した3年の芝南々子さん(17)と世羅田詩織さん(17)も「広島の生徒だからこそ持っている実感があると思う」と口をそろえた。被爆証言に何度も触れることで非人道性の意味を心に刻んできたからだ。

 軍縮・不拡散教育としてミドルベリー国際大学院モントレー校の研究所(米カリフォルニア州)が1998年から開いているCIF。日本での開催は初めてだ。土岐雅子研究員(49)は「被爆地で実感を伴う体験をし、70年前の現実を共有した日本や海外の若者が世界で活躍すれば、核をめぐる議論は変わるはず」と力を込める。

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聞き取り、目を背けず、あの日描く

 普通科内に創造表現コースを設け、美術教育に力を入れている広島市中区の基町高。同コースの生徒有志が取り組む「原爆の絵」は、被爆者と一対一で向き合うことで生まれる。

 焼けただれ、うめき声が聞こえてきそうな被災者たち。画布に描かれるのは1945年8月6日午前10時半ごろ、今の広島市中区千田町辺りの光景だ。「この時刻だと、背後の火勢はこれくらい」。傍らの児玉光雄さん(82)=南区=から助言を受けながら、2年津村果奈さん(16)が絵筆を動かす。

 爆心地から約900メートルの広島一中(現国泰寺高)で被爆し、千田町の方へ逃れていった児玉さん。「この光景は、もし写真家がいても、悲惨過ぎて正面からは撮れなかったろう。絵に表してくれるのは本当にありがたい」と話す。津村さんは「まだまだ想像し切れていない。聞いても聞いても…」と口元を引き締める。

 8年前から広島平和文化センターの依頼を受け、同校が取り組む。これまでに19人の被爆体験を56枚の絵に仕上げ、原爆資料館に収めた。被爆者は証言活動で活用。平和教育の次のサイクルが生まれる。

 高校生にとって、悲惨の極限といえる光景を自分の中で消化する作業。絵に描く心理的な負担は大きい。児玉さんは、飛び出てぶら下がる眼球を手で支える青年と一緒に逃げた体験を余さず伝えた。

 津村さんは「誰も見たくはないけど、目を背けてはいられない。伝えるためには」。指導する橋本一貫教諭(55)は「生徒が、平和について自分の言葉で語れるようになるのには驚く」と成長を感じている。

 社会学者としてこの活動に注目するのが立教大の小倉康嗣(やすつぐ)准教授(46)だ。基町高に何度も通って生徒や被爆者にインタビューを重ねている。「生徒たちが、被爆体験を抽象的な理念ではなく、個人の感情に分け入って受け止めているのを感じる」

 昨年、田川康介さん(87)=佐伯区=の被爆体験に向き合った3年田中晴気さん(17)は、大正橋(南区)の川岸に押し寄せる無数の被災者を描いた。「一人一人を描き込む中で、初めて『人が死んだ』『許せない』という感情が湧いた」と語る。

 焼けただれたわが子を抱いた母親の姿を描くために、自分の母親にモデルになってもらった生徒もいる。「体験を聞くだけでなく、自分を通して誰かに伝えることが、親身になって考えること、深い理解につながっている」と小倉准教授。被爆者の「肌感覚」の継承につながる可能性も秘めている。

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広島県原爆被爆教職員の会会長 江種祐司さん

事実教えることが出発点 遺構や手記ヒントに

 元中学教諭で広島県原爆被爆教職員の会会長の江種祐司さん(87)=広島県府中町=は、現役時代に平和教育に力を注ぎ、今も修学旅行生や地元の生徒に被爆体験を語り続けている。長年の経験に照らし、平和教育の現状と課題をどう捉えているか聞いた。

 ―被爆70年の今、平和教育の現状をどうみますか。
 自らの被爆体験、戦争体験を語れる最後の世代が教職の現場からいなくなって、ざっと20年になる。私が初めて教壇に立ったのは1948年だが、生徒自身に原爆のやけどの痕があった。今の学校や地域の日常に、戦争の傷痕はまず見当たらない。だからこそ平和教育が重要になるはずだが、今の教育現場には心もとなさを感じる。

 ―具体的には。
 例えば広島でさえ、原爆投下の日時や、落とした国を答えられない子が増えているというデータがある。「誰がいつ落としたか」。その事実を明確につかむことなしに、平和記念公園を訪ね、折り鶴を折ったとしても、感傷で終わってしまう。「なぜ落とされたのか」「これからどう防ぐか」という問いにつながりようがない。

 事実を教えることが出発点。平和教育を、ぼんやりとした道徳の問題にとどめてはいけないと思う。しかし、その傾向は強まっている。

 ―原因はなんでしょうか。
 地域や学校によって差はあるが、教員に「政治的偏向と言われるのでは」という萎縮が広がっている印象は否めない。広島県では98年の文部省(現文部科学省)による是正指導の影響が大きかったが、全国的な傾向だろう。

 しかし、いつ誰が落としたかを知らず、原爆を天災のように認識しているのがいいことなのか。被爆教師として平和教育の中で、「恨み」とは区別して「許せない」と教えてきた。今もそうすべきと思う。

 体験に基づく「許せない」という感情を、次世代の教員にもっと引き継げていれば、という反省はある。故石田明さんたちと、会の前身である県原爆被爆教師の会をつくったのが69年。私が体験を証言するようになったのは70年代後半から。致し方ないことではあるが、それまでは被爆の記憶から逃げていた。

 ―平和教育を再び活性化するには、どうすればいいでしょうか。
 体験がなくて分からないからとマニュアルに頼れば、はみ出すことへの恐れが芽生え、萎縮が深まってしまう。地域や学校の歴史、個性に目を凝らすことが鍵になるだろう。被爆教員は現場から去って久しいが、身近な場に被爆樹木や被爆建物、戦争遺構が残っていたり、被爆や戦争を記録した手記が眠っていたりするものだ。

 掘り起こせれば若い教員には実に新鮮に映り、平和教育のヒントになるだろう。子どもたちにはいっそう新鮮に違いない。時代の状況は、まさに平和教育の再興を求めている。

えぐさ・ゆうじ
 27年福山市生まれ。学徒動員された広島市南区の金輪島で被爆、市内で救援活動をした。48年に広島師範学校を卒業、音楽教諭として翠町中に着任。幟町中、段原中を経て88年、翠町中で退職した。14年から県原爆被爆教職員の会会長。広島平和教育研究所研究員。

世代交代 薄れる肌感覚

原爆や戦争はモノクロ映像の中のことになった

 新緑まぶしい5月。広島市中区の平和記念公園は、平和学習や修学旅行の児童生徒でひしめく。原爆資料館への小中高生の団体入館者はここ10年、年間約30万人で推移。5月は10月と並ぶピークで、ひと月に千校前後が訪れる。

 「平和教育の広がりと根付きを感じる風景。でも、中身を深めていくには、地元広島でも本当に厳しい時代になった」と、元中学教諭の松井久治さん(61)=南区=は言う。昨春に退職するまで、自主的な研究組織である市中学校教育研究会の平和教育部長を10年余り務めた。今は自宅に近い大州中(南区)に学習支援員として通い、後輩教員の相談にも乗る。

 「子どもたちはもちろん、若い教員も両親が戦後生まれの世代。戦争や原爆について『肌感覚』が失われた中での平和教育は、よほどの工夫がいる」

空白の学籍簿

 松井さんは数学教諭。1976年に採用され、翠町中(同)が初任校だった。当時の教頭だった広島県被団協理事長の坪井直(すなお)さん(90)たちと平和教育に力を注いだのが原点だ。生徒会を巻き込んで、前身の第三国民学校で被爆死した生徒や教員の最期をたどり、その記録を「空白の学籍簿」の名で教材化した。

 次の観音中(西区)では、生徒と「20万人の顔」活動に取り組んだ。新聞や雑誌から顔写真を切り抜いて大きな紙に貼り出し、原爆犠牲者の膨大さを実感しようとする試み。「職員室に被爆教員がいて、私自身は被爆2世。生徒の家庭も似たようなもので、身近な気付きから平和教育のアイデアが湧いた」

 しかし今、子どもにとって原爆や戦争は「モノクロの記録映像、ゲームの中のことになっている」と松井さん。平和教育部会は近年、いじめや貧困の問題と絡めて平和を考える授業例などを研究しているが、「私たちの世代以上の構想力が求められ、ハードルは高い」とみる。

正答率が低下

 広島の平和教育の水準は低下傾向にあるといえるのだろうか。目安として、広島平和教育研究所(東区)による調査がある。原爆投下の日時といった知識や、被爆証言に触れた経験などを広島県内の小学5年~中学3年生に尋ねたもので、68年から2011年までに7回している。

 広島への原爆投下日時の正答率では、79年の第4回調査で65・7%だったのをピークに、11年では42・3%に低下。投下した国の名の正答率も、79年の96・0%から11年の70・3%へ下がり続けている。

 原爆について知った情報源も変化が目立つ。「家族(や親戚)」を挙げた子は当初の6割台から3割へ減った。調査を分析し、論文にまとめた広島国際学院大の伊藤泰郎教授(47)は「身近に被爆者が少なくなり、家庭で話題になることも減ったのがうかがえる」と話す。逆に割合が増えたのは、主に学校行事で出会う被爆証言者。学校の平和教育が「頼みの綱」となった現況も浮かぶ。

 投下日時の正答率は、95年から5年ごとに広島市(市教育センターまたは市教委)が市内の小中学生に尋ねた調査でも、下降傾向だ。歯止めをかける狙いもあり、市教委は13年度から「ひろしま平和ノート」という記入式の教材を小中高校に配り、国語や社会、道徳などの時間に活用を促している。

 「若い教員には助け舟になる教材」。松井さんはそう評する一方で、「平和教育がマニュアル化すれば、本末転倒。現場でつくり出してこそ意義がある」と強調する。

 松井さんたちが関わった「空白の学籍簿」は、翠町中で今も教材として使われている。8月の慰霊祭を前に、生徒会が7月に校内放送で朗読し、全員が手元で読む。「藤長和子さんは、昔の雑魚場町で被爆され、元宇品の自宅で亡くなられました…」

 当時の生徒会が、テープレコーダーを抱えて地域の遺族を訪ね歩き、記録した「遠い先輩」たちの死。同校で平和教育を担ってきた横山孝夫教諭(46)は「210人の死を追い掛けた、ものすごいエネルギー。自分たちにも何かできることはないか、問い掛けてくる」と話す。

 校内には被爆建物が残り、慰霊祭に今も参列する遺族がいる。「生徒と一緒に、この教材に新しいページを加えることもできるかもしれない」。そう考えを巡らせている。

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「お勉強」で終わらせない

 「楽しいはずの修学旅行で、悲しくつらい話をしてごめんなさい」。群馬県から広島市を訪れた中学3年生約40人を前に、切明千枝子さん(85)=安佐南区=が被爆体験を語り始めた。南区にあった母校の第二県女の校庭で、後輩の遺体を次々に火葬した体験を証言した。

 被爆証言をするようになったのは1970年代末から。東京の中学教諭として広島への修学旅行を推し進めた江口保さん(98年、69歳で死去)に説得されて始めた。「生きたくても生きられなかった人の分まで生きて」。被爆時の自分と同世代の子たちに、諭すように語り掛けた。

 平和教育の柱の一つである被爆証言活動。「被爆体験証言者交流の集い」に加わる広島の約20団体の集計(88年度以降)によると、件数は増える傾向を見せ、ここ10年は年間約2500~3千件。参加人数は当初から20万人台を保つ。多くは修学旅行の児童生徒で、全国の平和教育を支え続けている。

 ただ、聞く側の子どもの意識は変わってきているのかもしれない。切明さんは「証言を始めた頃は、生徒と一緒に泣くような体験があった。家族に戦争で傷ついた人がいるのが珍しくない世代。共感は深まりやすかった」と振り返る。

 3歳で被爆した広島県被団協(坪井直理事長)の清水弘士事務局長(72)は、父を奪った原爆や戦後の苦難について証言してきた。「最近の生徒は行儀はいいが、無反応で伝わっているのか不安になることもある」と言う。

 広島へ修学旅行をする東京都内の中学の教諭は「事前学習をしっかりしないと時代のイメージが湧かず、証言に現実味を感じられない世代。だが、学科重視の空気の中で時間は取りにくい」と打ち明けた。

 「貴重な被爆証言を『お勉強』として聞いて終わり、では悔しい。何か工夫してみたい」。広島市出身の映像作家時川英之さん(42)は今、中学時代の恩師の依頼で、被爆者の証言の教材化に取りかかっている。既に2人の被爆教員の語りを撮影したが「語りの収録だけで終えたくない」。米国に拠点を置くドキュメンタリー専門チャンネルで実績を積み、帰国して劇映画も監督した経験を生かす。

 かつて自分にとっても、平和教育が気乗りしない「勉強」に感じられたことがある。「今の子なら、なおさらだろう。被爆者本人の語りでなく映像でとなったら、もっとそうなる」  証言者の被爆後の足取りを、今の子どもに追跡させた映像を付ける案などを考えている。「ヒロシマの過去が今とつながってこそ、生きた教材」。狙いは明確だ。

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ひろしま平和ノート(写真)
 広島市教委が2013年度から市立の全小中高校に配り、活用を促している。小学1~3年生向けは、命の尊さを伝えるのが狙い。被爆後の広島でたくましく生きる少年の姿を描いた漫画「はだしのゲン」も登場する。小学4~6年生は被爆地復興にテーマを広げ、中学は世界平和の課題、高校では平和実現へ向けたヒロシマの役割を学ぶ。

(2015年5月23日朝刊掲載)