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世界のヒバクシャ

特集:隠された核被害

第2章:ソ連

 これまでに判明しているソ連の重大な核事故といえば、1957年にウラル山脈の東、キシュティムの核兵器工場で起きた核廃棄物の爆発事故による「ウラル核惨事」と、1986年のチェルノブイリ原発事故の二つだろう。このうちウラル核惨事は、事故から19年もたった1976年11月、反体制生物学者ジョレス・メドベージェフ氏(64)が英国の科学誌「ニュー・サイエンティスト」に発表して初めて明らかになった。ソ連政府が事故を公式に認めたのは、さらに13年後、事故から32年もたった1989年6月だった。

タンク爆発し廃棄物噴出

 事故は1957年9月29日夕、ソ連有数の工業都市チェリャビンスクの北約100キロにあるカリス市キシュティムの軍事核施設で起きた。核兵器用プルトニウムの生産過程でできる核廃棄物の貯蔵タンクが爆発。タンク内にあった高レベルの放射性廃棄物2,000万キュリーのうち200万キュリーが大気中に噴き出した。

 ロンドンで研究生活を続けるメドベージェフ氏を訪ねると、彼は「事故については1950年代には知っていた」とこともなげに言った。ただ、情報が断片的だったので、事故の全容をつかんだのは英国に渡ってからだった。

 メドベージェフ氏によると、事故の原因は、高熱を発する放射性廃棄物の冷却装置が故障したため、高レベル廃液が短時間のうちに過熱して爆発した。容積300立方メートルのタンクを覆った厚さ1メートルのコンクリートのふたは吹き飛び、直径30メートル、深さ5メートルのクレーター(陥没)ができた。爆発規模はTNT火薬70トン相当といわれる。

13村の1万人避難

 ソ連政府の説明では、約1キロ上空まで噴き上げられた放射性物質は、南西の風に乗って北東に流れ、「死の灰」は半日近く降り続いた。ストロンチウム90による汚染範囲は、1平方キロ当たり0.1キュリーの地域が1万5千平方キロ(人口27万人)にも及んだ。このうち1平方キロ当たり2キュリー以上の汚染があった幅800~900メートル、長さ105キロの地域にある13村、1万700人に避難措置がとられた。

 避難はまず事故現場に近い3つの村で実施され、10日以内に約千人が村を離れた。これらの住民の被曝線量は最大72レム、平均50~52レム。残りの住民は1年以内に避難した。10日以内に避難した住民のうち被曝線量の高かった600人は病院で検査を受けた。事故直後は白血球が通常の6割くらいまで減少したが、1年半で全員が正常な値に戻った。

 被曝者の追跡調査を続けている生物物理研究所支部によると、事故から33年たった1990年の時点では、がん死亡率、乳児死亡率、先天性障害など放射線に起因するとみられる異常は見つかっていない。

 「死の灰」が降り注いだ地区のうち特に汚染がひどかった167平方キロは、「禁猟区」として、今なお住民の立ち入りを禁止している。禁猟区には検問所が設けられ、区域内では1958年以降、動植物の生態研究が行われている。禁猟区内の汚染は今も残っており、ガンマ線が1時間当たり50マイクロレントゲンと、自然値の5倍の放射線が検出される所もある。禁猟区の外では農地の表土を削り取って地中深く埋める除染対策がとられた。その結果、一部で農業も再開されている。生物物理研究所支部によると、これらの農地で採れる農産物の放射能汚染は、ソ連の基準を下回っているという。

米英、事故公表せず

 ウラルの核惨事について米英両国の情報機関は、早くからその事実を知っていた。メドベージェフ氏は自著『ウラルの核惨事』で「米中央情報局(CIA)は遅くとも1958年には事故を確認していた」と書いている。

 では、なぜ米国は事故を公表しなかったのか。同氏はその理由として次の2点を挙げた。まず、ウラル核惨事と同じ頃、デトロイト近くのエンリコ・フェルミ原子炉で事故があり、マスコミに大きく報道されていた。また、英国でもウインズケール核工場(現在セラフィルードと改称)で火災事故があり、両国の国民の間に放射線被害への不安が広がっていた。

 メドベージェフ氏は「このような条件下で、ソ連の核事故を公表することは、西欧諸国の核政策にとってもプラスにならない。従って、西側情報部はウラル核惨事を秘密にしておいた」と言うのである。

 ウラル核惨事の翌年(1958年)、当時のフルシチョフ首相が突然、核実験の一方的停止を宣言した。これについてメドベージェフ氏は「フルシチョフ首相は別に反核思想にとりつかれたわけではない。核兵器の製造拠点であるキシュティムの機能が事故のためにマヒしたからにほかならない」と分析している。

 米ソ英3国の核開発競争が激化し、米ソの緊張は極度に高まっていた。当時、ソ連政府はキシュティムの核兵器工場を「チェリャビンスク40」の暗号名で呼んでおり、米国は情報収集に目の色を変えていた。事故から3年後の1960年5月、米軍のU2型偵察機が撃墜されたのは、ほかならぬチェリャビンスク上空であった。

 メドベージェフ氏によると、核惨事のあったキシュティムは今も秘密の町であり、町を流れるテチャ川の汚染がひどいため、生活用水として使えない状態が続いているという。同氏は「政府は健康被害はないと言っているが、国際原子力機関(IAEA)への報告を詳しく検討すると、乳児死亡率と成人白血病の数値が高く、事故処理に当たった囚人や軍人の健康状態も問題だ」と慎重な見方をしている。また、政府が32年もたって事故を公表したことについては「もっと早く公表して事故の教訓を生かしていれば、チェルノブイリ原発事故は防げたかもしれない」と言い、秘密主義が危機管理の妨げになっていることを指摘した。

全体は依然ベールの中

 ソ連政府は1989年8月、「ウラル核惨事」以前にも、キシュティム核兵器工場で大量の放射性廃棄物による汚染事故があったことを確認している。それによると、ウラル核惨事で爆発した廃棄物貯蔵タンクを造る以前、1億2千万キュリーの廃棄物が、近くのカラチャイ湖に放出された。

 放射能の放出量はウラル核惨事(200万キュリー)、チェルノブイリ原発事故(5千万キュリー)に比べてケタ違いに多い。政府はカラチャイ湖の汚染を封じ込めるため、今後、6千万ルーブル(約132億円)の資金と3~4年の期間が必要とみている。しかしながら、この事故による住民や環境への影響がどの程度であったかは明らかにしていない。

 また、1950年代に核戦争を想定した南ウラル軍事演習で原爆を爆発させ、演習に参加した兵士の間に放射線被曝による後遺症が広がっていることも、1989年に明らかになった。ソ連国防省の機関紙「赤い星」が同年10月にこの演習の事実を暴露した。

 それによると、1954年9月14日、南ウラルの演習場で300~500メートルの空中で原爆を爆発させた。その結果、地上に配置された戦車は爆風で吹き飛ばされ、なかには高熱で溶けて地中に埋まった戦車もあった。「赤い星」は、この演習で死傷者はなかったと報じたが、その後、ソ連政府機関紙「イズベスチヤ」に掲載された元兵士の証言によると、演習で多数の兵士が死傷し、生存者は今も被曝の後遺症に苦しんでいる。

 セミパラチンスク核実験場以外の核実験被害については断片的な情報しかない。1989年8月の「モスクワ・ニュース」によると、ソ連の最東端にあるチュコト自治管区での大気圏核実験(1950~60年代)の「死の灰」で、住民にがんが多発し、寿命の低下、乳児死亡率の上昇がみられる。

 科学アカデミー社会学研究所や人民代議員の報告に基づく同紙の報道によると、少数民族チュクチ人の被曝線量はチェルノブイリ原発事故の監視区域住民とほぼ同じという。その中でもトナカイ肉を常食にしているチュクチ人は、トナカイが汚染されたこけ類を食べるため、食物連鎖でセシウム137の体内蓄積が進み、蓄積量はトナカイを常食にしていない人の100倍にも達する。その結果、食道がんの死亡率が高く、肝臓がんの発生率はソ連平均の10倍、肺がん、白血病の発病率も2倍に増えている。このほか、免疫低下によりほぼ全員が結核にかかり、平均寿命はわすか45歳だという。

 長い間秘密にされてきたソ連の核被害は、チェルノブイリ原発事故、セミパラチンスク核実験場の閉鎖を求める市民運動の高まりなどを契機に少しずつ明らかになり始めた。しかし、これまでに明らかになった核被害はごく一部とみられ、全容は依然として秘密のベールに包まれている。とりわけ懸念されるのが核実験による被害である。

 というのも、ソ連の核実験はこの40年の間、ほぼ全土で600回以上行われてきたが、実験の影響に関する情報は政府が握っており、実験場周辺の住民は何も知らされていないからだ。

 チェルノブイリ原発事故への対応一つとっても、政府の対策は後手後手に回って、事故から4年以上たった今も被害は広がり続けている。原発を含む核開発に全力を傾注してきたソ連だが、放射能汚染、放射線障害対策については研究も遅れており、秘密の扉が開かれるにつれて、今後多くの国民が深刻な健康不安に直面することになるのは間違いなさそうだ。