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世界のヒバクシャ

2. 「グリーンラン」実験の真実

第1章: アメリカ
第1部: 秘密の平原ハンフォード

2つのナゾを追う

 ヨウ素131だけで53万キュリー。なぜこれほど大量の放射能が漏れたのだろう? 放射能を故意に放出した「グリーン・ラン」実験とは? ハンフォード核工場の2つのナゾを追った。

 公表されたエネルギー省(DOE)の極秘資料から、まず1949年の「グリーン・ラン」をたどると…。

 ▽12月2日夕 通常の冷却期間の5分の1、16日間しか冷やしていないウラン燃料棒を冷却槽から取り出す。
 ▽2日深夜 放射能の放出実験開始。
 ▽3日午前5時ごろ 実験終了。工場周辺から「警戒基準以上放射能検出」の情報相次ぐ。(放出量=キセノン133
   2万キュリー、ヨウ素131 7,780キュリー拡散範囲=南北1,920キロ、幅640キロ)

 
ソ連情報把握狙う

 核工場の南、パスコに住むジョージ・ロジャーズさん(66)は、実験にかかわった科学者の1人。インタビューを申し込むと「公表された範囲内なら」と応じてくれた。彼が明かした「グリーン・ラン」の目的。それは「ソ連の原爆情報をつかむため」という衝撃的なものだった。

 ソ連が初の原爆実験に成功したのが、1949年8月。この時点で米の核独占は終わる。「わが国はソ連の開発状況を常に把握しておかねばならない。そのため、ソ連と同じやり方を試しておく必要があった」とロジャーズさん。

 米国のウラン燃料棒の冷却期間は、当時、平均90日。ヨウ素131(半減期8日)の放出を少なくするためには、それくらい冷やしてプルトニウム製造工場に移した方がよいと考えていた。ところが、ソ連はわずか16日しか冷却していなかった。

 「開発を急ぐあまり、期間を縮めていたらしい」とロジャーズさん。十分に冷えていない「青い燃料」という意味から、この追試実験を「グリーン・ラン」と名付けた。

 とすると、実験過程で大量の放射能が出るのは十分予測できたはず。なぜ周辺住民への対策を講じなかったのだろう。「いとも簡単に原爆が造れる現在から考えると、ばかげたことだが」と前置きしてロジャーズさんが話した。「当時、ソ連はわが国の原爆情報がのどから手が出るほど欲しかった。スパイの目も光っていた。すべてを公表したら、一体どうなるかね」

環境への影響心配

 もう1人、この実験の放射能測定の責任者だったガマー・フィルダーさん(76)は「環境への影響を心配した。でも軍が権限を握っていて、どうしようもなかった」と、当時を振り返った。

 彼は、広島原爆「リトルボーイ」を造ったテネシー州オークリッジ近くで余世を送りながら、ハンフォードに強い関心を抱く。「確かに『グリーン・ラン』の問題は重大だ。だがもっと深刻なのは、40年代から大気中に放出し続けた放射能の方だよ」

 フィルダーさんの指摘どおり、1944年から13年間に放出された放射能は、3年前のソ連チェルノブイリ原発事故に近い量である。特に1944、45の2年間で全放出量の60パーセント近い34万キュリーを占める。ちょうど長崎原爆の製造に全力をあげていた時期だ。

 「あのころは砂のフィルターを使っていた。何もかも手探りだったよ」。一応の除去技術が確立するのは1950年代後半。「砂のフィルターは気休め程度」とロジャーズさんは付け加えた。

 2人の証言は、放射能の危険防止が二の次だったことを示して余りある。