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世界のヒバクシャ

1. 放射能放出実験明るみに

第1章: アメリカ
第1部:秘密の平原ハンフォード

 アメリカが「核時代」の未知の扉に手をかけて、半世紀になる。1942年、原爆開発の「マンハッタン計画」が始動。3年後に完成した原爆は広島、長崎で爆発し、やがてゴールなき核開発競争が始まる。その間ワシントン州ハンフォードは、一貫して核開発の最前線だった。そして今、周辺の人々は、核工場の隠微な歴史を知って驚き、怒り始めた。

険しい山々で遮断

 丘に登っても、廃道をたどっても、ハンフォード核工場は見えなかった。「世界最大のプルトニウム工場群を、どうしてもこの目で…」。その一心で農薬散布用のセスナ機を借り、上空を飛んだ。

 大きくくねったコロンビア川を境に、ジャガイモ畑の緑が消え、岩と土だけの砂漠の世界に変わった。小高い山の向こうに、1,600平方キロという広大な荒野が広がる。川に沿って煙突、ビル群が続く。原子炉は合わせて9基。

 四方は険しい山。「どこからも遮断された地形であること」。これがオークリッジ(テネシー州)、ロスアラモス(ニューメキシコ州)と並ぶ原爆開発の3大拠点としてハンフォードが選ばれた理由である。

 かつては人口1,200人の小さな村だった。そこを軍が接収し、1943年から極秘のうちにプルトニウム製造工場の建設が始まる。ピーク時には5万1千人もの技術者が、原爆用プルトニウムの生産に携わった。秘密工場と呼ぶには、あまりにも壮大な規模である。

長崎の原爆を製造

 西端に「B原子炉」が見える。2本の円い塔が銀色に光り、灰色の5つの建屋が群がる。「あれが長崎の原爆『ファットマン』のプルトニウムを生んだ原子炉だよ」。ガイド役を務めてくれた農場主のトム・ベイリーさん(42)が風防ガラスの向こうを指さした。

 B炉が臨界に達したのは1944年。カナダなどから取り寄せたウランを燃やしてプルトニウムを抽出。それをロスアラモスに運んで製造したのが「ファットマン」。「長崎市民にとっては、忌まわしい爆弾の古里ってわけだ」とベイリーさん。

 ハンフォードの任務は「ファットマン」以後も続く。戦後、冷戦の激化とともにプルトニウムの需要は増し、増設に次ぐ増設で米核戦略を支えた。B炉が止まったのは1968年。そして必要なプルトニウムをたっぷり蓄えたハンフォードは、3年前のN炉を最後に全炉を停止させた。

大量の放射能放出

 煙も、人の気配もなく、不思議な静寂を感じさせる原子炉の平原。「核時代の壮大なモニュメント(記念碑)ですね」と何気なく口にした。

 ベイリーさんが大声を上げた。「モニュメントだって?とんでもない。『のろわれた場所』って言ってほしいね」。彼は、3年前明るみに出て、住民を不安に陥れている放射能汚染の驚くべき実態を話し始めた。

 1944年のB炉稼働から13年間に、53万キュリーものヨウ素131がまき散らされ、その秘密資料が1986年に公表されたこと。1949年には放射性物質を故意に放出する極秘実験が行われていたこと。それらの汚染の影響が、まだ何一つ解明されていないこと…。ハンフォード核工場の秘密のカーテンは、まだほんの少し開かれたばかりだ。

1本の電話が契機

 ハンフォード核工場の驚くべき放射能放出が明るみに出た裏には、一人の女性記者の6年に及ぶ追跡があった。ワシントシ州東部、スポケーン市に本社を置く「スポケーン・レビュー」紙の環境問題担当、カレン・スチール記者(45)である。

 彼女のハンフォードとの出合いは、5年前の1984年。核工場内に建設された民間の原子力発電所の不正を特集記事に書いたところ、女性の声で電話がかかってきた。「ハンフォードには、お金の不正よりもっと重大な問題が隠されている」と。スチール記者はすぐ、電話の主に会った。「レーガン政権になって、軍事用プルトニウムの生産が急増した。職員の健康は無視されている」。その女性は核工場の労働者だった。内部に精通した話が、次々と出てくる。

 「12キログラムのプルトニウムが紛失した。原爆を造るに十分な量。いま連邦捜査局(FBI)が調べている」。とりあえず、この事件だけを記事にした。

 思わぬ展開に、スチール記者の関心は工場周辺に集中。「甲状腺(せん)障害やがんに苦しむ人が近所に多い」と不安がる婦人。「目のない子牛や足が不自由なヤギは珍しいことではない」と、家畜の奇形を証言する牧場主。「核工場から何か有害なものが出たに違いない」とスチール記者は考えた。

資料公開求め裁判

 そのころ環境保護団体「スポケーン教育連合」もハンフォードを調べていた。連絡をとりながらエネルギー省(DOE)に資料提供を掛け合う。DOEのガードをくぐって秘密資料の入手に成功したのは2年後の1986年2月。1万9,000ページの膨大な資料を2週間がかりで分析したところ、目を疑うような事実が浮かび上がった。

 「40-50年代の13年間に、53万キュリーの放射性物質ヨウ素131が、大気中に放出されていた」という恐るべき環境汚染。すぐ特ダネとして1面に掲載。全米の有力紙が後を追い、汚染問題は広く知れわたった。

 次の狙いは、秘密資料に1行だけあった「1949年にグリーン・ラン実施…」のなぞの解明。何か重大な実験らしい、としか分からなかった。

 DOEは「国防」を盾に資料公開を拒否。行き詰まったスチール記者は、情報公開法に基づいて「公表」を求める裁判を起こした。1年半の審理の結果「勝訴」。「極秘」の印がある126ページの資料は想像を超える内容だった。

 「原子炉から取り出した燃料棒から、故意に放射能を放出…」。これが「グリーン・ラン」と呼ばれる極秘実験の正体だったのだ。今年5月4日、スチール記者のスクープが再び朝刊を飾った。

今秋から健康調査

 執念の追跡は連邦議会を動かし、核工場周辺住民の健康調査が今秋から始まる。疾病対策センター(CDC)が、年間500万ドルをかけ、住民の疾病動向を調べ、被害者救済の基礎資料を整える。

 1本の電話から6年。いやがらせ、ののしり…。「でも何も知らされず苦しんでいる住民のため、真実をつかみたい一心だったわ」と、スチール記者は苦しい取材の足どりを振り返った。

 「軍事に機密はつきものよね。でもハンフォードは度が過ぎていたと思うの。それにDOEには、ハンフォードの秘密文書がまだ3万ページ分もあるのよ」。スチール記者の追跡はまだまだ続く。汚染の背後にある「影」は何一つ解明されていないし、健康被害の全容をつかむのはこれからなのだ。