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世界のヒバクシャ

2. 被災者 第5福竜丸以外にも

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第2部: 第5福竜丸の被災者たち

自覚ないまま3回被曝

 ビキニ水爆実験による日本の船舶の被害は第5福竜丸だけではない。「ビキニ水爆実験被災調査団」(団長・吉富啓一郎高知大学教授)などの調査で、高知県を中心にマーシャル諸島海域を航行した船舶の乗組員の健康被害が少しずつ明らかになってきた。これまで調査した船員241人のうち61人が、がんや白血病、肝硬変などで病死している。私たちは太平洋の荒波が押し寄せる高知県室戸市を訪ね、1人の被曝者に会った。

 室戸市郊外の自宅で、山下昇一さん(64)は、往時を懐かしむようにマグロはえ縄をいじっていた。「昔は百貫(375キロ)以上のマグロがどんどん揚がったもんだ」と、ひとしきり自慢話を聞かせてくれた。

 ビキニ事件が起きた1954年、山下さんは父親が船主のマグロ漁船第2幸成丸(157トン)の無線長だった。第5福竜丸より約1カ月遅れの2月24日、神奈川県の浦賀を出港し、マーシャル諸島の東約900キロの海域を中心に操業した。東京・築地に帰港したのは4月15日だった。その間、第2幸成丸は航行中の3月1日、27日、4月7日の計3回、一連のビキニ水爆実験に遭遇していた。

 「自分では死の灰を浴びたという記憶はまったくなかったよ。でも、築地に入港したらガイガーカウンターで放射線量を測定すると言われてね。髪の毛から毎分250カウント検出されたと聞いてびっくりした」

 彼以外の24人の乗組員からも高い放射線量が検出された。船体や漁具も汚染されていた。その時のことを思い出しながら山下さんは「灰は降らなかったような気がするね。恐らく放射能が雨に混じっていたのだろう」と言った。漁船員は航海中、雨が降ると甲板に出て体を洗う。「『塩出し』っていうんだけど、あれで放射能を浴びたんだろう。でも、その時は健康への不安よりも、マグロが売れなかったのが情けなかったなあ」と言った。

 漁労長、船主まで務めた山下さんは、マグロ漁業の不振で1974年に廃業してしまった。その後、魚の加工を手掛け、1989年暮れに一線を退いた。「その間、胃潰瘍の手術をしたぐらいで特に健康を気づかったことはない」という彼だが、吉富教授らの調査で、同じ船に乗っていた25人のうち12人が、直腸がん、肺がん、肝硬変などで病死していることを知って、がくぜんとした。

 「ほとんどが自分より若いというのが気になる。今さら放射能のせいとは思いたくないけど、これだけ多いと、やっぱりあの時の被曝が尾を引いているのかなと思ってしまう」と溜め息まじりに言った。