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世界のヒバクシャ

1. 仏核政策の犠牲

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第3部: 汚れた楽園―仏領ポリネシア

 大海原に宝石を浮かべたような、南太平洋ポリネシアの島々を人は「最後の楽園」と呼ぶ。フランスは、ドゴール政権下の1966年、この楽園を核実験場にした。以来、ミッテラン政権に至る今日まで、「楽園」の看板の裏側で繰り返された原水爆実験は150回を超える。「核」と同居を強いられ続ける島々で、何が起きているのだろうか。

原爆を盗み撮り

 仏領ポリネシアの空の玄関、タヒチ・ファアア空港に降り立った。タラップを吹き抜ける潮風、降り注ぐ陽光が快い。若者がギターとウクレレを奏で、民族衣装のにこやかな娘さんが、胸に真っ赤なハイビスカスの花を一輪つけてくれる。まさに「楽園」を思わせる歓迎である。

 だが、それはポリネシアの「表」の顔にすぎない。空港近くで会ったフリア・ポールさん(49)は周囲をはばかるように、しわくちゃの紙袋から、黄ばんだ写真を2枚とり出して言った。

 「これを見てくれ。1973年の7月、ムルロアで働いていた時、こっそり撮ったんだ」。写真には飛行船の下につるした黒い物体が写っている。「何だと思う?原爆だよ」。そう言って、彼は小声で話し始めた。

 フランスがムルロア環礁で核実験を始める1年前の1965年から80年まで、彼は荷役労働者として何度もムルロアへ渡った。実験が始まってしばらくして、たくさんの仲間が原因不明の病気にかかったんだ。それから「魚は食べるな、ココナツのジュースは飲むな」と海軍が言い始めた。

 「爆弾のせいに違いない」とにらんだポールさんが「何かの証拠に」と、禁を犯して写したのが、この2枚の写真である。軍に知られるのを恐れて、ひそかにベッドルームに隠していた。「人に見せるのは初めてなんだよ。広島から来たのなら、この写真、信じてくれるだろう?」。彼は興奮気味に言った。

犠牲に耐えながら

 タヒチ滞在中、ポールさんとはもう一度、ポリネシアの英雄、ポウバナア・オ・オオパの胸像前で会った。年に一度、5月に開かれる追悼集会である。

 「オオパはポリネシア独立と核実験反対運動のリーダーだった。なにしろ彼は、あのドゴールに立ち向かった男さ。ひどい弾圧を受けて、フランス本国に11年も投獄されたんだ」とポールさんが教えてくれた。穏やかな中にも決意に満ちた顔が、銅像の前にいくつも並んでいた。

 「ムルロアのことを話すには勇気がいるんだよ。フランスの機嫌を損ねると、仕事をくれなくなるから」。ポールさんのつぶやきに、周りの参列者もうなずいた。

 ゴーギャンが絵筆を手に後半生を送り、ミュージカル映画「南太平洋」のスクリーンに映し出された甘いロマンの島。そんな「楽園」も、目を凝らし、耳を澄ませば、核の鎖につながれた島の人たちの憂いとうめきが聞こえてくる。フランスの核政策の犠牲になりながら、じっと耐えているのだ。

 タヒチから帰国直後、フランスがファンガタウファ環礁で今年(1989年)4回目、通算107回目の地下核実験を行ったことが、ニュージーランドから伝わった。タヒチへ電話を入れたが、実験があったことはだれも知らなかった。

 欧州がすっぽり入る広大な海域の310余島に暮らすポリネシア住民は16万人ほどいる。だが核実験が何をもたらすかを知る人は、まだ少ない。

「死の灰」広範囲に

 核実験の影響を知るには、ムルロアや周辺の島へ渡るのが早道ということはだれでも思いつく。しかし、観光以外の目的でポリネシアへ入ることは難しい。まして実験場へ合法的に行くことなどフランス政府が認めない。やむなく私たちはタヒチ島を歩き回って、実験場を見たという人の証言を聞いた。

 ポリネシア人でただ1人、ムルロア環礁の核実験場で放射能汚染の調査に従事した経験のある労働者に会った。タヒチに住むハオア・エドウィンさん(51)である。彼は実験場の建設当初から12年間、ムルロアで働いた。核実験が始まった1966年の7月、「危険はない」というフランス側の説明を信じて、汚染調査班に加わるようになった。以来、1972年までの7年間に30回余り、核爆発直後の環礁を歩き回った。彼が証言する汚染調査はこうだ。

 調査に向かうのは決まって実験の翌日で、危険水域の外側で待機する軍艦から、4人1組でヘリコプターに乗り、指示された地点へ着陸する。白い防護服に身を包み、ガスマスクを着用して、ガイガーカウンターを手に島の残留放射能を計測して回る。

 「カウンターのスイッチを入れると、ガーガー鳴りっ放しだったよ。特に、何度も実験があった環礁の北側はすごかった。汚染のひどい所には『立ち入り禁止』のフェンスを張らなきゃならん。延長50キロ以上ある環礁の半分が立ち入り禁止になったこともあるよ」。エドウィンさんはこともなげに言った。

 広大な海域に首飾りのように延々と白い砂浜が続く。機上から見た環礁の1つを思い浮かべ、思わず身震いした。

 「髪が抜けて間もなく死んだり、貝を食べて体中がかゆくなって狂い死にした実験場関連の労働者もいた。遺族は口封じされ、仲間は仕事を失うのを恐れて黙っているのさ」。エドウィンさんが証言するこうした労働者の死は、放射線被曝が原因と断定できないまでも、その可能性が大きいことをうかがわせる。

回遊魚汚染も調査

 さらにエドウィンさんは、放射能汚染が、ムルロアのはるか東方、マンガレバ島にまで及んでいたことも話してくれた。マンガレバ島は実験場から約360キロ離れた、人口500人の島である。「あの島まで行って測定したら、回遊魚の汚染が特にひどかった」と言うのだ。回遊魚による島民の二次被曝は十分考えられる。フランス政府はそこまで調査の手を広げながら、実験の影響を一貫して否定する。

 フランスの徹底した秘密主義によって、ポリネシアの人たちは「うわさ」以外に情報を持たない。これに対して汚染に神経をとがらせるオセアニアや南米諸国は、自衛のために独自の調査を始めた。

 例えばニュージーランドの場合、ムルロアの西3,600キロの西サモアに監視所を設けている。1966年9月11日、当時のドゴール大統領立ち会いのもとで爆発させた広島型の8倍の原爆は、西サモアに雨水1リットル当たり13万500ピコキュリーの汚染をもたらした。

 同じように高い放射線を検出したフィジー、クック諸島のデータからみて、仏領ポリネシアに大量の「死の灰」が降り注いだのは確実だ。

 周辺各国が、ムルロアの大気圏核実験による汚染データを分析した結果、1971年には1963年当時と同じレベルにまで上がっていた。1963年といえば、部分的核実験停止条約の調印を控え、核保有国が競って駆け込み実験を繰り返した時期である。条約を無視していたフランスも、世界的な抗議行動に直面し、1975年から地下核実験に切り替えざるを得なくなった。

 だが、これで汚染がなくなったわけではない。今度は環礁の割れ目から放射能漏れの疑いが出てきたのだ。その危険を指摘したのは、あろうことか、フランス政府が調査を依頼したフランスの学者だった。