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世界のヒバクシャ

3. 島民だまして実験強行

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第3部: 汚れた楽園―仏領ポリネシア

死の灰降りそそぐ

 フランスが核実験を強行するため、どんなごまかしの手段を使ったか、島民たちの証言を聞いてみた。

 ポリネシアで初めての核実験を2カ月後に控えた1966年5月、フランスは住民や船舶に対して、次のように通告した。「ムルロア環礁の周囲400キロと東方740キロのくさび型の範囲を危険水域とし、立ち入りを禁止する」

 ところが、この水域には人が住んでいる島が7つもあった。実験反対の活動家がその事実を指摘すると、実験本部は危険水域を「環礁の周囲222キロ」に縮小してしまった。それでも1つの島は、依然として立ち入り禁止区域内に残った。ムルロアの北122キロにあるツレイア島がそれだ。当時、島には50人が住み、自給自足の平穏な生活を営んでいた。

 実験を予定通り進めたいフランス政府は、困った揚げ句「北向きの風が吹く時はやらない」と島民を言いくるめた。しかしポリネシアは北西向きの風が吹く貿易風地帯である。仏政府の弁明にもかかわらず、死の灰はツレイア島に降り注いだはずだ。

島民が突然「蒸発」

 そのツレイア島民が、初の水爆実験を目前にした1968年7月、突然「蒸発」してしまったことがある。消息は間もなく分かった。なんとフランス海軍の艦艇でタヒチに運ばれ、軍の野営地に「隔離」されていたのだ。

 「知らない」と言い張っていた海軍は、事実が暴露されると「島民がただでタヒチへ行かせてくれと言ってきた」と、「蒸発」への関与をしぶしぶ認めた。だが「水爆実験とは無関係」と強弁し、念入りなことに、テレビで島民に「フランス海軍には感謝している」とまで言わせた。

 危険水域設定や風向きのずさんな判断といい、島民の「隔離」といい、フランス流のあくどさに、温厚なポリネシアの人々も精いっぱいの抵抗を試みた。その1つとして領土議会は、親フランス派を含む超党派で、科学者を交えたテレビ討論会の開催を決議したことがある。しかし、これに対するフランスの回答は、総督が決議を無視することだった。

 ツレイア島が危険水域に取り残されたのに対し、危険水域を縮小するというごまかしで「安全」になった島はどうなったのか。その1つ、ガンビエ諸島マンガレバ島は、ムルロアの東360キロ、人口500人の島である。

 この島に1963年から1968年まで駐在した元警察官のテツアヌイ・ウィルフレッドさん(50)は、「実験の後、魚を食べて大勢の島民が病気になった」と、当時の様子を話してくれた。

 彼によると、水爆実験の直前に、ムルロアからの死の灰に備えて退避所がつくられた。実験の後いつも軍艦が礁湖に入り、海水で艦を洗った。島民の飲料水は雨水、食べ物はヤシや魚介類だから、島民が放射性物質を体内に取り込んだ可能性はきわめて高い。

 「フランス人が島へ来て、定期的に住民の被曝線量や健康調査をしたけど、その結果の説明は1度もなかったよ」とウィルフレッドさんは証言する。

 ツレイアにしろマンガレバにしろ、現在の島民の健康状態は分からない。医師はいないし、マンガレバにいたタヒチ出身の看護師は、実験開始直前にフランス人と交代してしまった。「これもフランス流だよ」とウィルフレッドさんは悔しそうに言った。

 がんや子供の病気など、断片的な情報がタヒチに入ることはある。しかし真偽を確かめるのは容易でない。ジャーナリストは無論、観光客すら、これらの島への立ち入りは厳しく制限されている。