×

世界のヒバクシャ

6. 独立運動と核実験反対

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第3部: 汚れた楽園―仏領ポリネシア

1985年に非核宣言

 フランスの核実験は前述したような徹底した情報統制のもとで繰り返された。ポリネシアの住民たちは、それを甘受して来たかというと、そうではない。精いっぱいの抵抗や抗議を続けている人たちがいた。

 「ファアア、オイレ・パトイ・アトミ、マナバ(非核都市ファアアへようこそ)」。タヒチの首都パペーテから国際空港へ通じるメーン道路を経てファアア市へ入ると、こんな木製の看板が迎えてくれる。看板には核実験反対の市民の願いがこもる。仏領ポリネシア第1の都市ファアアには2万4千人が住む。4年前に非核宣言をし、観光客へアピールするために立てたのが木製の看板である。

 小ぢんまりした平屋建ての市役所に、オスカー・テマル市長(44)を訪ねた。市長は、1976年に結成した「ポリネシア解放戦線」の議長だ。税関職員として働いていた時、ムルロアの核実験を目撃した1人でもある。

 「核実験が始まるまで、放射能が何か、それがどんな恐ろしい結果をもたらすか、ポリネシア人はだれ1人知らなかった。むろん、私もね。フランスはわれわれに何も教えようとはしなかった」。穏やかな口調の中に、怒りをにじませながら市長は話した。

 彼を核実験反対に向かわせたきっかけは、自然界の異変だった。1966年に実験が始まると、ココナツやパンノキの葉が黄色に変わった。これまで目にしたことのない現象に、実験場周辺で働く労働者から不安の声が高まった。「島の生き物が全滅する。やがて人間もそうなるのではないか」との思いで反対運動に加わった。

闘いは苦労の連続

 1983年、市長に初当選し、3年後の領土議会(定数41)の議員にも選ばれ、1989年3月の市長選では60パーセントの得票率で再選を果たした。

 テマル市長は核実験反対の市民世論を担ってきた。しかし、その闘いは苦労の連続である。フランスの秘密主義、反対運動への妨害、ポリネシアン人医師・科学者の不足、放射能や核兵器に関する情報不足、そして最大の悩みは、住民が点在する島に暮らすため、核被害者の組織化が難しいことだ。

 タヒチには新聞が2紙あるが、フランス語だけで、内容も当然フランス寄りだ。解放戦線は市民に呼びかけて3月にビキニ・デー、8月にヒロシマ・デー反核集会、5月のメーデーに独立運動の先駆者オオパの追悼集会を開く。「でも、私たちの活動を新聞がとり上げてくれたことは一度もない」とテマル市長は言った。

 困難の中で、日本やオーストラリアから医師・科学者を招いて核被害を掘り起こす試みや広島の原水禁世界大会に代表を派遣する取り組みもした。最近では、ファアア市の援助で「非核ラジオ局」を開設して、ポリネシア人向けに核情報をながす試みも始まった。

 こうした動きをフランス政府は細かくチェックし、いざという時は強硬姿勢に転じる。1985年7月10日夜、ニュージーランドのオークランド港で起きた「にじの戦士号事件」はその典型だろう。ムルロアへの抗議航海を前に、環境保護団体の船が爆破され、カメラマンが死亡した。後にフランス情報部員の犯行と分かり、国際的な非難を浴びたが、核実験は続行された。

 「ポリネシアの独立しかない。そうすれば実験もできなくなる」。こう確信するテマル市長にとって、核実験反対と独立運動は、車の両輪なのだ。

 ポリネシアの人々の放射能への不安に、フランスはただ「安全」「心配ない」と繰り返す。そのフランスにテマル市長ら解放戦線が突きつけている要求は、「核実験が本当に安全だと言うのなら、フランス本国でやればよい」と実に単純明快である。