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世界のヒバクシャ

2. 実験場に迷い込み被曝

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第4部: 英核実験の忘れ物

所長の嘆き 居住者数さえ不明

 1984年、アボリジニーに返還されたマラリンガ核実験場周辺の土地は東西200~200数十キロ、南北200数十キロの広大な面積である。その土地の管理と帰郷者の世話をする自治組織「マラリンガ・ジャラジャ土地信託所」の事務所を訪ねた。

 マラリンガ核実験場の南西約250キロ、南オーストラリア州セドゥナの事務所で、所長のアーチ・バートンさん(52)は、ため息まじりにつぶやいた。「実験の前、何人のアボリジニーが住んでいたのか、見当がつかないなあ。まして被曝した人数となると…」

 バートンさんは2人のアボリジニーの老人が写った白黒の写真を示した。実験場に誤って入り込み、被曝した可能性があるが、もう1つ確証がないという。

 「もともと核実験とは何か、まったく知らなかったんだから、当時どこで何をしていたか、覚えている人は少ない。政府が危険を知らせる看板を立てたけど、文字の読めないアボリジニーが多いからね。危険と知らずに実験場近くに住んでいた人たちもいる。でも被曝したことを証明するのは難しいよ」。バートンさんは何度も首を横に振った。

 政府が1984年に設置した調査委員会が、被曝を確認したアボリジニーはわずか4人だという。彼らはマラリンガ核実験場に迷い込み、軍関係者に発見された家族である。「それだって長い間、秘密にしていたんだからね」とバートンさん。

 その家族が実験場に入ったのは1957年5月13日夜のことだった。夫婦と子供2人、そして犬2匹が、核爆発でできたクレーターに迷い込み、翌朝見つかった。そこは5カ月前の核実験で、まだ残留放射線が残っていた。

 家族は実験基地に収容され、被曝線量を測り、汚染除去のシャワーを何度も浴びて、その日のうちに、200キロ南のヤラタにあるアボリジニーの収容所へ車で送られた。検査の結果、被曝線量は低く、人体には無害と判定された。しかし、当時妊娠していた母親は死産した。

 「この家族の行動は、実験場へ簡単に入れたことを如実に示している。砂漠に住むアボリジニーを核実験の危険から守るうえで、政府の対策が不十分だったことは明白だ」とバートンさんは言う。

 その母親は今も健在である。彼女は「オーストラリア政府は、英国の核実験を容認しながら、十分な安全対策をとらなかった」として補償を求めている。

伝統的生活を破壊

 18世紀後半、白人が入植して以来、アボリジニーは迫害を受け続けてきた。「神聖な母なる大地」(バートンさん)を追われ、人口は50万人から1930年代には5万人まで激減した。1967年にやっと公民権が認められ、人口も20万人台に回復したとはいえ、核実験のための土地の接収が、アボリジニーの伝統を崩壊に導いたことは否定すべくもない。

 「狩猟中心の伝統的な暮らしもコミュニティーも、もうめちゃくちゃさ。核被害も大きな問題だけど、生活の維持で手いっぱいなんだ」。帰郷後の食糧援助対策などに追われるバートンさんは、くやしそうに言った。

 政府の調査委員会は、大ビクトリア砂漠のアボリジニーの中に、被曝者が存在する可能性は認めている。しかし、積極的に被曝者を捜し出す気はない。アボリジニーから申し立てがあれば、その都度検討するという姿勢だ。

 だが、アボリジニーの大半は、核被害を自覚することなく暮らしている。彼らが「被曝」を政府に申告する可能性は、極めて小さい。