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世界のヒバクシャ

1. 「アトミック・キウイ」

第3章: 太平洋諸島・オセアニア
第5部: クリスマス島 英核実験被害者たち

 1950年代、米ソに次ぐ核保有国になった英国は、オーストラリアと南太平洋クリスマス島など5つの核実験場で、21回の大気圏核実験を行った。実験に参加した英国人兵士は約1万7千人にのぼる。30年余りを経た今、実験に立ち会った兵士の間に、がんなどの後障害が目立ち、彼らの子供にも遺伝によるとみられる障害が頻発している。障害者や遺族は、英国被曝退役軍人協会を組織し、独自に集めたデータを基に、国に補償要求を突きつけている。

人体実験だったのでは?

 英国の核実験に立ち会って、今もきのこ雲の影に不安を抱き続ける人は、ニュージーランドにもいる。首都ウェリントンの北、ワンガヌイ市に住む元海軍兵士のツリ・ブレイクさん(56)もその1人だ。「あれは人体実験だったのでないのか」と、30年余りの間、彼はこだわり続けている。

 1958年4月28日、ブレイクさんの乗った軍艦は、クリスマス島の沖合40キロに停泊していた。英国の艦艇は、水平線のはるか向こうに退避し、ケシ粒のように小さく見えた。

 機関士のブレイクさんら12人に、甲板に上がるように命令が下る。彼を含め3人は、放射線を測るガイガー・カウンターを首から下げた。そして防護服はおろか、手袋も靴下も着けず、機上から投下される水爆の爆発の一瞬を待った。

 やがて艦長の命令で、爆発予定地点に背を向け、両手で目を覆った。「爆発の瞬間、閉じたまぶたに閃光が走った。背中はまるで火がついたようだったなあ」。ブレイクさんはその時のことを思い出しながら語った。

14秒後、指示に従って振り向くと、真っ赤な火球がオレンジ色に変わり、きのこ雲ができた。爆発音がとどろき、衝撃波が襲った。きのこ雲が上空を覆い、やがて土砂降りのスコールに打たれた。

585人が動員される

 ガイガー・カウンターがけたたましい音で危険を告げる。報告に行くと艦長は「気にする必要はない」とだけ言った。人体実験への疑念が頭をもたげたのは、この時だった。

 クリスマス島が核実験場に選ばれたのは、オーストラリア本土での実験に批判が高まった1957年のことだった。米国がマーシャル諸島、フランスがポリネシアの島々を実験場にしたのと同じ発想からである。

 ブレイクさんが水爆実験に立ち会った1958年から翌年にかけ、英国はクリスマス島で6回、同島の南東800キロのモールデン島で3回の核実験を繰り返した。ニュージーランド海軍が動員されたのはこの時だった。「アトミック・キウイ」と呼ばれる核実験参加のニュージーランド兵は585人を数える。彼らの主な任務は、危険水域のパトロールと気象観測だった。

 ブレイクさんは、1961年に退役した後、急に視力が落ち、精神状態も不安定になり、仕事が長続きしない。そして今、生活保護を受けて細々と暮らす。

 核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のメンバー、グラハム・ガルブランセン医師(35)は、ブレイクさんらアトミック・キウイの有力な支援者である。死亡者50人の追跡調査を続けている彼は「どうもがん死が多いようだ。急性症状を示した兵士もいる。仮に低線量でも、何らかの影響は受けるはず」とみる。また、アトミック・キウイとの面談などから、ブレイクさんのように精神的に不安定な人が多い点にも注目している。

 彼らの訴えが新聞、テレビで報道され、ニュージーランド国防省は1987年、元兵士の健康調査を始めた。

 「もし私たちの病気が、あの『人体実験』のせいなら、当然、政府に補償を求める。でもそれ以上に、政府は核実験がもたらした被害の全容を明らかにしてほしい」とブレイクさんは訴える。