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世界のヒバクシャ

6.広島被爆の体験生かす

第4章: インド・マレーシア・韓国
第3部: 放射能不安―韓国「核」発電所

初めての原発訪問

 毎月、欠かさず「文藝春秋」を読み、書棚には司馬遼太郎や城山三郎の著書が並ぶ。「毎日が日曜日、ですよ」と言って笑う郭貴勲(カク・キフン)さん(65)は、家系図、族譜でいうと30代目の当主にあたり、両班(貴族)気質がにじむ。1945年8月6日、西部第2部隊の幹部候補生として広島市中区白島北町にいた。

 郭さんは韓国原爆被害者協会の創設メンバーであり、ピポックチャ(被爆者)の1人として、マスコミが取り上げる原発の放射能汚染論議を注目してきた。この夏、ソウルにある東国大付属高の校長を定年で退き、40年余りの教員生活に別れを告げた。その郭さんに取材の通訳を頼んだところ「喜んでお手伝いしましょう」と快く応じてくれた。彼自身、原発に足を踏み入れるのは初めてだった。昨今の、接点のない汚染論議にもどかしさを覚えていた彼は、「広島での体験を生かせることがあると思います」と言ってくれた。

 退職金の一部を充てて購入したばかりの愛車「エクセル」のハンドルを自ら握り、汚染論議の舞台となっている原発周辺を駆け巡った。

 「郭先生、僕らは大丈夫でしょうか」。霊光原発の元下請け作業員で、被曝の影響を心配する金益成さん(31)、金東必さん(22)は、郭さんが被爆者であることを知ると、すがるような面持ちで尋ねた。

 「これから子供をつくっても…」と若い金東必さんが言いよどむとすかさず、自分が3男2女をもうけた体験を引き合いに、「不安は分かるが、何よりも前向きに生きることだよ」と励ました。「前向きに」、それは被爆後、自ら培った「哲学」でもある。郭さんは通訳の役目さえ忘れたかのように懇々と語った。

 胃がんのため若くして亡くなった方潤東さん(当時29歳)や、被曝の責任を明らかにしたいと訴える両親や弟の姿に、郭さんは自分たちの険しかった道程が二重写しになる。44年を経た今日まで、ピポックチャには日本からの補償も謝罪もない。「国を相手に方さん一家はどこまで闘えるだろうか」と言う郭さんの言葉には、口先だけでない重い響きがあった。

被爆者の使命自覚

 「核発電所追放」を求めて100万人署名運動を展開している反核グループを訪ねた時には、「彼らこそ無知ですよ」とストレートに不快感を見せた。「放射線被害は遺伝する」と原発の危険性を強調するメンバーの発言に、郭さんは「一体何を根拠に」と、色をなした。

 同時に、韓国電力公社にも厳しい目を向ける。「法律以下だから問題はない」。こんな決まり文句に接するたび、「放射線をできる限り浴びないよう教育することが先決」と強い口調で言う。ピポックチャとして生き抜いて来た自負が、聞きかじりの宣伝や責任のがれの言葉を容赦なくはねつける。

 韓国の原発影響論争は、互いの立場に固執し、極論がマスコミを通じて飛び交う。その渦中にあって、被害者や遺族は健康・生活への不安を広げる。

 日本で14年前に出版された「被爆韓国人」の著者である郭さんは、辛酸をなめ、亡くなった同胞の分まで日本の責任を問い続ける。その彼は、原発による放射線被害の問題に、もう1つの使命を感じ取る。

 「被爆者は核の問題に対してだれよりも発言できる資格、使命がある。それを果たすことで、新たな被害を生み出さない、被害者の立場に立つ考えが広がってくるのではないかね。今はちょうどその時期にさしかかっているのかもしれない」。原発とその周辺を訪ねる1,300キロの旅を終えて、郭さんは一語一語かみしめるように言った。