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世界のヒバクシャ

5. 国籍離脱し母国の「核」告発

第5章: 英国 • フランス
第2部: 閉ざされた核情報―フランス

父親、ムルロア実験場へ

 父が核兵器工場や核実験場で働いていて、がんで亡くなったという女性を、デンマークの首都コペンハーゲンに訪ねた。フランス出身で、10年前デンマークに帰化した教育コンサルタントのマーティン・ペトロさん(37)である。

 「あの国の体質に耐えられなかったの」。蔵書に囲まれたアパートで、彼女はフランスとの訣別をこう話した。

 ペトロさんの父ルネーさんは、1966年、南太平洋のムルロア環礁で初の実験が行われた年に、原子力庁の電気技師になり、パリの南東300キロ、ディジョン市近郊の核兵器工場に配属された。ちょうど大気圏核実験の中止を求める国際世論を無視して、フランスが独自の核開発に全力をあげていた時期だ。

 「工場での父の仕事は、主に安全対策のための電気装置を取りつけたり、維持管理をしたりすることだって聞いたわ。時にはホットゾーン(放射能危険区域)での作業もあったようね」。ペトロさんは1972年、大学卒業と同時にデンマークへ移り住み、1978年、母親から1通の手紙を受け取る。父が腎臓がんに侵されている、という知らせだった。

 「1977年と78年の2回、ムルロアの地下核実験場へ派遣されていたらしいの。帰ってきて間もなくがんと分かって…。50歳だったわ。亡くなったのは」

 彼女は淡々と話した。ムルロアで父は、給料を2倍もらった上に、南太平洋の魅力をたっぷり味わい、シュノーケリングのとりこになって、暇さえあれば海に入っていた。そんな話を母から聞いて「フランスがますます嫌いになった」とも言う。

 「だってそうでしょ。自分たちが放射能で汚した海で泳ぐなんて。フランス人の『無恥』と『無知』をさらけ出しているとしか言いようがないもの」。だが、彼女は、父親を責めているわけではない。父も含め、ムルロアへ派遣されるフランス人労働者は、詳しいことは何1つ知らされていないのだ。フランスは、そういう国なのだという。

被害者救援の活動

 父の同僚で、同じ運命をたどった何人かの人を、彼女の母は知っていた。「でも母は遺族同士で結束して政府と闘うようなタイプじゃないの。それより何より、大多数のフランス人は、放射線被曝の危険なんて知らないのよ」

 ペトロさんは、フランス人の核被害に対する関心の低さは、マスコミの「核不感症」のせいだ、と言い切った。「栄光の国」「西欧の警察官」といった、漠然とした国家意識に浸って、マスコミ全体が核政策のチェック能力を失っているというのだ。

 父の死を契機に、彼女は核被害者の救援のために、ささやかな活動を始めた。フランス政府がペトロさんに支払った遺族給付金15万フラン(約330万円)で「核実験に反対するコペンハーゲン財団」を設立したのである。基金の運用益(年30~40万円)を、ポリネシアの被害者へ送り続ける。

 「たいした額ではないけど現地の人を励ましてあげたいの」。そう言う彼女自身、デンマーク国内で、講演、集会、新聞への寄稿などを通じて、フランスの核政策を告発する。その活動が浸透して、デンマークで「ムルロア」の名は知れ渡った。

 「今度はフランス人を目覚めさせる番よ。『知らない、知らせない』マスコミに目を開いてもらわないとね」。国籍は捨てても、彼女にとってフランスは、やはり「母国」なのだ。