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世界のヒバクシャ

2. 低賃金と監視つき社宅

第6章: ブラジル • ナミビア
第2部: ナミビア 砂漠のウラン採掘

10畳弱に6~8人

 ロッシング鉱山でウランの採掘、精錬が始まった1976年当時、労働者は鉱山からわずか4キロの砂漠の中の「社宅」をあてがわれた。

 「部屋も体もほこりまみれだったよ。砂漠の砂だけならまだしも、鉱山のダスト(土ぼこり)がすごかった」。操業当時から硫酸工場で働いてきたカラ-ドのコレーテ・バイクさん(36)が、のど元に手をやりながら、しわがれ声で話してくれた。

 そのころの労働者は、黒人1,500人、カラード1,000人に対して白人はわずか200人で、それぞれがブロックに分かれて住んでいた。建物はすべて煉瓦造りだったが、面積や間取りには、あからさまな人種差別があった。

 白人の住まいは居間も台所もゆったりしており、白人専用のレクリエーション・センターも完備していた。これに対して黒人とカラードは、15平方メートル、10畳足らずの部屋に6~8人が詰め込まれ、周囲にフェンスが張りめぐらしてあった。そのうえ、番犬を連れた保安係が常時巡回する監視つきの暮らしだった。

 「白人はVIP(重要人物)なみさ。おれたちは、粗末なベッドとタンス以外、これといった家具もない。既婚者は妻や子供を故郷に残して単身だったよ。『社宅』というより『キャンプ』だね。そりゃ、ひどいもんだった」。そう言ってバイクさんが見せてくれた1976年撮影の白黒写真は、ベッドのほか目につくものはポータブルラジオくらいだった。

給料は白人の半分

 今でこそ1日8時間労働で週休2日制が定着したが、操業当時は、1日12時間労働だった。それでもバイクさんは「おれたちの給料は白人の半分にも満たなかった」と言う。

 おまけに、そのころは時間給制で、稼ぎを増やそうと思ったら、黒人やカラードは身を粉にして働くほかなかった。時間給といっても、熟練度によって給料に差がある。最低が95セント(57円)、熟練すると2ラント70セント(162円)にまで上がる。がっしりした体格のバイクさんの場合でも、残業に次ぐ残業で月に290ラント(17,400円)稼ぐのが精いっぱいだった。

 日用品の物価は日本の3分の1から4分の1。だが、「決して楽な生活ができる給料ではなかった」とバイクさんは振り返る。ナミビア全体からみれば、ロッシング鉱山の労働者は恵まれてはいたが、家族を故郷に残して働く労働者は、仕送りしながらのぎりぎりの暮らしだった。

 厳しい差別と低い賃金水準のもと、苦しい生活にあえぐ彼らは、放射線の影響についてはほとんど知らされなかった。会社はエックス線やガンマ線が体を突き抜けるということは教えていたが、ここはウランが少ないから心配ないとも言っていた。

 放射線を測るフィルムバッジの着用を会社が義務づけたのは、創業3年後の1979年で、それも酸化ウランを取り出す最終工程だけだった。だから労働者たちは被曝線量を知らず、分からないまま会社の言いなりにならざるを得なかった。

 この3年余り、バイクさんは胸が締めつけられる症状に悩まされている。「同じ病気の仲間はいっぱいいるよ」。彼はそう言って、知り合いの労働者を紹介してくれた。