×

原爆記録写真

菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅲ

こらえきれぬ痛さ 「伝え残す」強い思い
※2007年3月28日付特集などから。

■編集委員 西本雅実

 原爆による広島の惨状を克明に収めた写真家、菊池俊吉さんの貴重な記録写真が、被爆地で保存される。原爆資料館と中国新聞社は、ネガフィルムを保管している東京都在住の妻徳子さん(82)の協力と、広島国際文化財団の助成を得て、ネガから焼いた計860枚を電子化して保存し、詳しい説明を付けてインターネットでも発信する。プリントは、35ミリネガからが771枚、66判(6センチ×6センチ)が89枚でいずれも画像は鮮明。「1945年8月6日」に何が起きたのか、ヒロシマが持つ意味をあらためて国内外に伝えていく。

 菊池さんが、旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行して45年10月1日から20日まで当たった撮影を述懐した一文が残る。自らも呼び掛け人となり82年につくった「反核・写真運動」が編さんした「原爆を撮った男たち」に収められている。

 その中で「見るからに痛々しく、写すのが申しわけない気になる」と記したのが、広島赤十字病院に収容された兵士の撮影。全身やけどのうえ下痢など急性放射線障害の症状に襲われていた。

 「映画のライトの熱でやけどがピリピリしていかんのです。その当時はこれ以上痛いめに遭わせてくれるなの気持ちでした」。被写体となったのは、呉市中通に住む佐々木忠孝さん(86)。広島市中区上八丁堀にあった中国軍管区兵器部に所属し、爆心地から北東約1キロの広島城の堀端で閃光(せんこう)を浴びた。焼け残った福屋百貨店に2日後かつぎこまれたところを捜しに来た妻らが見つけ、担架で赤十字病院に運んだ。

 収容者は病棟でもイワシのように並べられ、食事といえば孟宗(もうそう)竹に入れた玄米が配られる程度。毎日、4、50人のペースで亡くなっていったという。

 「家族が鍋釜を持ち込み食べさせてくれなかったら、とうに死んでいた。それで、重藤さん(副院長で後に初代原爆病院長となる重藤文夫さん=82年死去)が『奇跡の生存者がいる』と紹介して、映画に撮られたわけです」。撮影間もない10月下旬、「同じ死ぬなら郷里の自分の家で」の思いから現在の竹原市に戻った。家族の懸命な介護もあり3年後に社会復帰したが、入市被爆した妻は後に39歳の若さで亡くなった。

 原爆記録映画は日本映画社が製作し、完成後に米軍が接収。文部省へ67年返還されたが、公開は「生々しすぎる」と「人体への影響」をめぐるシーンを13分カット。紆余(うよ)曲折を強いられた。カット部分が70年に初めてテレビで全国放送され、佐々木さんは自身が映画に登場しているのを確認した。金融機関に勤め、再婚した妻と4児を育てる日々にあった。

 被爆体験を人前で語るようになったのは70歳に近づいたころから。呉原爆被爆者友の会に語り部会もつくった。上半身に残るケロイドを撮った写真に加え、映画からの複製プリントも手に入れて証言した。その佐々木さんにして、オリジナル写真があるとは思いもしなかったという。

 「私も年で広島に来て修学旅行生らに話すのはもう無理だが、こうした写真を通して、原爆が無辜(むこ)の民を殺してしまうことを伝えていってほしい」。浴衣をはだけて無残な姿をさらし目もうつろな自身が写る6カットをはじめ、被爆地にそろった菊池さん撮影の原爆写真を見ての願いを託した。

 菊池さんは、廃虚での撮影を「放射能の目に見えない怖さと、撮影者として写しがいもあったことを感じた」と書き残している。究極の大量殺りく兵器である原爆がもたらした世界を伝え残す使命感にかられ、被写体への「申しわけない」との気持ちを抑え込んでシャッターを切った。

 広島から戻ると、木村伊兵衛らと写真集「東京 1945年・秋」を出版し、独立。科学実験や東北の農山村を撮り続けた。湯川秀樹、朝永振一郎とも親交を結び、核兵器の全廃に声を上げたノーベル賞物理学者らのプライベートな表情も収めた。妻の徳子さんは「広告宣伝の撮影は引き受けようとせず、こうと思ったらテコでも動かない人でした」と、74歳で逝った報道写真家の横顔を表した。死因は急性白血病だった。

※写真はクリックすると大きくなります。