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原爆記録写真

ヒロシマの記録 原爆調査写真

■編集委員 西本雅実

投下3日後 一面廃虚

 「原子爆弾に依る広島市被害状況写真」。厚紙の表紙に墨で題名を記した手製の写真帳には、1945年8月6日に何が起きたのかを伝える鮮明な23枚の写真が続く。陸軍船舶司令部写真班の川原四儀さんが残したオリジナルプリントである。川原さんは、被爆の放射線後障害とみられる副腎がんのため1972年に49歳で亡くなった。「軍の命令で撮影し、ネガは終戦時に焼いたり、土の中に埋めたりして処分したと言っていました」。妻の川原縫子さん(84)は中区西白島町の自宅で夫の形見を広げた。一連の写真はいつ、どこで、どのように撮られたのか。取材を進めると貴重な原爆写真をめぐる「空白」が埋まってきた。

 川原さんは生前の1968年に元写真班員と広島市役所を訪れ、この写真帳を公開したことがある。当時の新聞記事によれば「原爆資料館などにある写真は複写されたもので、同僚のだれかが提供したものでしょう」と語り、被爆直後の写真は自分たちが撮影したと名乗り出た。その証しとしてプリントを張った写真帳を持参した。

 また「古い記憶をたどってデータをつけるよう努力しよう」とも述べたが、やがて病魔に襲われ果たせなかった。このため数々の写真集に掲載される川原さん撮影の写真は、今も撮影日や説明がまちまち。間違いもある。複写が繰り返されたぼやけた画像が出回る。

 縫子さんの協力で、オリジナルプリントと川原さんが死の前年に書き残していた被爆者健康手帳交付申請書を手掛かりに撮影当時を追った。

 川原さんは被爆の瞬間、爆心地から4.6キロの南区宇品海岸にあった船舶司令部の「写真班西側部屋の机に向かって居た」。その後は「救護、写真撮影する」。申請書には、行動が子細に記されていた。

 船舶司令部を出発して電車通りを上り、紙屋町から西練兵場、第二総軍、基町の広島陸軍病院、三滝と江波の分院を軍用車で回っている。同伴者は「軍医部将校」。この足取りは、陸軍省派遣の「広島災害調査班」の9日の行動とまさに重なる。

 「広島に特殊爆弾」との報告が大本営に届いた2日後の8月8日、原子物理学者の仁科芳雄博士ら大本営調査団(9人)を乗せた輸送機に東京第一陸軍病院の山科清少佐ら5人の軍医団も搭乗した。その「極秘 速報綴(つづり)」が残っている。山科さんが1965年、原本を現在の広島大放射線医科学研究所に託していた。

 「八月九日 八〇〇(注・午前八時)患者自動車ニテ市内ノ空襲被害状況視察ス(写真参照)」「行動順序 船司―総軍―広病跡―三滝分院―広病二―江波分院―船司」「山科軍医似島に先行」。病理が専門の山科少佐は被爆者が次々と運ばれ、息絶えた似島で12例の剖検に当たった。広島市の出身で戦後は佐伯区で開業し、1983年に72歳で死去。長男が継ぐ内科医院を訪ねると、似島で撮られたとみられる原爆のむごさを伝える写真があった。

 川原さん撮影の一連の写真は8月9日とみて間違いない。仁科博士ら大本営調査団が翌10日に「原子爆弾ナリト認ム」と判定した報告書の原案資料にも添付されている。新妻清一元陸軍参謀から原爆資料館に寄贈された原資料で確認できる。将校や輸送車が写る別カットもあった。

 船舶司令部写真班員は7人。撮影は、川原さんと今は島根県川本町に住む尾糠(おぬか)政美さん(83)が終戦まで主に当たり、救護所の様子も収めた。ネガは米軍の進駐を前に「命令により司令部の空き地で機密書類とともに廃棄した」と尾糠さん。しかし「あの惨状」を撮影し、焼き付けた川原さんらがプリントの一部をひそかに保存した。それでヒロシマの鮮烈な記録が残った。

 川原さんは戦後は写真店を営んだ。入院わずか19日目に亡くなった病床で家族の名前を呼び、「一枚焼かせてくれ」が最期の言葉だった。

(2005年8月3日朝刊掲載)