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原爆記録写真

ヒロシマの記録 埋もれていた同盟の報道写真

■編集委員 西本雅実

全国に報じた初の被爆写真 広島 4日後の姿 同盟記者が撮影

 広島原爆の惨状を初めて全国に伝えた報道写真が現存し、撮影者や経緯が分かった。「同盟通信社」大阪支社の記者、中田左都男さん(1994年に74歳で死去)が原爆投下4日後の1945年8月10日に入って撮影し、同19九日付から各紙に掲載された。複製のプリントは、広島市の原爆資料館が整理している「相原資料」(旧文部省学術研究会議の原爆災害調査などをめぐる約6000点の資料)に含まれ、中田記者の撮影写真は32枚が見つかった。

 全国に惨状を伝えた写真は、爆心地から東に870メートルの旧中国新聞社本社から撮った東南方向の廃虚。終戦が報じられた4日後の19日付の朝日新聞、毎日新聞の各東京・大阪本社版、読売報知(読売)、中部日本新聞(中日)、23日付の中国新聞(本社焼失のため朝日西部本社で代行印刷)と西日本新聞、31付の北海道新聞などで掲載が確認できた。

 「惨禍の広島市 原子爆弾投下により瞬時に焦土と化し煙突一本を残すのみとなった市街の一部」とほぼ同じ説明が付き、各紙とも表裏2ージだけの紙面で4段から3段と破格の扱い。また、中田記者が撮った列車の転覆現場など2枚も載っている。政府と軍の報道統制が解け、米軍進駐に伴い翌9月19日付で出る「プレス・コード」(検閲)を前に、被爆の実態を報じた写真だった。

 中田記者は、海軍の求めで広島を調査した大阪大の浅田常三郎教授(1984年死去)の当時の手帳に同行の報道班員として名前がある。10日に被爆地に入り、調査団が翌日引き揚げるまでの間に撮ったとみられる。

 同盟大阪支社の写真部員だった小路春美さん(92)=大阪府高槻市=は「中田さんは大阪海軍警備府詰めの記者。それで広島へ向かえたのだと思う。ただ大阪支社で現像、焼き付けた記憶はない」という。東京にフィルムごと送られ、プリントが全国に配信、配送された可能性が高い。

 同盟は、1936年設立の日本を代表した通信社だったが、1945年10月に解散。中田さん撮影の廃虚などの写真は1973年に米国から戻った「返還資料」にも含まれていたが、撮影者や経緯は分かっていなかった。

被爆の惨状 全国に

 原爆による広島の惨状を全国に初めて伝えた写真の撮影者と経緯が判明した。「同盟通信社」大阪支社の記者だった中田左都男さん(1920―94年)が1945年8月10日に入り、撮った廃虚の写真をはじめ32枚が見つかった。うち少なくとも3枚が米軍の進駐を前に各紙で掲載され、被爆の実態を知らせていた。写真はどのような状況で撮られ、扱われたのか。中田記者の足取りを含め、埋もれていた原爆報道写真を紹介する。

 「相原資料」が取材のきっかけだった。1945年9月下旬に広島入りした旧文部省学術研究会議の原爆災害調査団に同行した記録映画の製作者、相原秀次さん(97)=埼玉県=が当時から集めていた写真や文書など約6000点もの資料が昨年末、高齢の本人に代わって家族から原爆資料館へ寄せられた。

 その中に「同盟ネガ返却」「中田撮影」「中田某については全くわからない」とのメモに、廃虚のプリントなどがあった。中田記者撮影の写真は32枚を数えた。

 社団法人の同盟は、政府管轄の報道機関でもあり1936年設立、終戦2カ月後の1945年10月に解散した。共同通信社と時事通信社に分かれたが、中田記者の名前も取材の足跡も残っていなかった。

 同盟OBをたどると、「大阪海軍警備府に詰めていた記者です」。大阪府高槻市に住む元共同通信社カメラマンの小路春美さん(92)が中田記者を覚えていた。日本軍のシンガポール占領による1942年の「山下・パーシバル会談」などを撮影して1944年に大阪支社へ戻り、何度か一緒に取材していた。

 中田記者による原爆写真を点検して「よく残っていたもんですね」と感心し、こう続けた。「ピントが手前から奥まで合い、粒子が荒れていない。支社にあったライカ(ドイツ製カメラ)ならば距離計が付いており、それを携えたのでしょう。ただ支社で現像、焼き付けた記憶はありません」。支社で写真を配信しても、ネガフィルムは常に東京本社へ送り、管理していたという。

 「大阪海軍警備府」を手がかりに資料を探すと、海軍の求めで広島に入った大阪大理学部の浅田常三郎教授(1900―84年)の当時のメモに「同盟中田左都男 報道班員」とあった。広島県立文書館が写しを所蔵している。

 浅田教授らの「広島原子爆弾災害報告」によると、中田記者は大阪海軍調査団の一員として「八月十日」に被爆地に入った。一行は翌日まで呉海軍病院の自動車を使い、爆心地そばの護国神社、八丁堀、東練兵場などを回り、放射能を測定。中田記者はこの間に撮影したとみられる。

 旧中国新聞社本社から撮った廃虚の写真は、「八月十九日」付の朝日、毎日の東京・大阪本社版、読売報知(読売)、中部日本(中日)の各紙に掲載されていた。政府や軍の報道統制によるそれまでの「新型爆弾」ではなく「原子爆弾」と明記し、「惨禍の広島市」を報じていた。本社が焼失したため小倉市(現在の北九州市)で代行印刷されていた中国新聞23日付に初めて載った惨状を伝える写真も、中田記者の廃虚写真であった。

 さらに中田さんの消息を追うと、同盟解散時に記者を辞めて、大阪で輸入洋品店などを営み、1994年に74歳で亡くなっていた。妻も5年後に死去、子どもはおらず、原爆取材について書き残したものはなかった。兵庫県にいためいは「叔父から広島行きに手を挙げ、写真を撮ったと断片的に聞いたことはありますが、自分のことを詳しく話す人ではなかった」という。

 入市被爆者でもある中田さんの死因は肺のがんの転移だった。被爆者健康手帳は最期まで取得していなかった。

 同盟の中田記者撮影の32枚の写真のうち掲載したカットの説明は、相原さんの調査メモや、原爆資料館の資料調査研究会メンバーとして調べていた写真家の井手三千男さん(今年6月に死去)との生前の検証、大阪大理学部の浅田常三郎教授の手帳や「広島原子爆弾災害報告」(いずれも広島県立文書館が所蔵)などの各文献を参照して記した。

広島原爆の初期報道写真
 「8月6日」当日の被爆した市民を収めたのが、中国軍管区司令部報道班に出ていた中国新聞写真部の松重美人さん。5カットを撮った。爆心地2.2キロの御幸橋で撮った2枚は、本社発刊の翌年7月6日付「夕刊ひろしま」で初めて掲載。米占領軍の検閲を考慮し、本紙では使えなかったとの証言が残る。ネガが現存している。

 各社の広島支局も壊滅したため、大阪から取材に入っている。毎日新聞大阪本社写真部の国平幸男さんは9日に社会部記者と取材。11日付の大阪本社版に「新型爆弾刎(は)ね返した廣島市」の説明で、東署に缶詰め類が運び込まれる光景など2枚が「国防写真隊員撮影」として載っている。「『毎日』の3世紀」によると、国平さんは焼け野原の写真を使いたかったが軍の検閲から許されなかった。

 9日夕には、朝日新聞大阪本社写真部の宮武甫さんが中部軍司令部宣伝工作隊員として入市。16日付の大阪本社版に倒壊した下村時計店(中区本通)が載る。米占領軍の原爆写真接収に対し、宮武さんはフィルムを守り、遺体の荼毘(だび)も収めた121枚が残った。

 11日付の読売報知(読売)には「廣島にて高特派員発」のルポ記事がある。大阪支社通信部の高重光記者が8日に入ったが、写真を撮ったかどうか不明。14日付の中部日本新聞(中日)には「水野特派員」撮影の壊れた土蔵写真が載っている。

(2006年9月24日掲載)