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原爆記録写真

被爆5年後 復興絵はがき 広島市内で見つかる

 被爆5年後の広島を写真で鮮やかに記録していた「復興絵はがき」が見つかった。現在の廿日市市出身で戦前に台湾で写真館を営んだ、片山弥三吉(やさきち)さん(1951年に59歳で死去)が撮り制作していた。被爆の傷痕と復興ぶりが交差する紙屋町交差点や、「マッカーサー通り」とも呼ばれていた鯉城通り、原爆犠牲者を慰霊する「広島大仏」などを紹介した8枚からなる。広島市西区に住む五女の片山美代子さん(70)が保存していた。市へ近く寄贈する。(西本雅実)

ヒロシマの一歩 鮮明 50年作製「復興絵はがき」 ビル街や新道路

 被爆地広島を1950年夏に写真で収めた「復興絵はがき」が作られていた。前年に国の特別立法である広島平和記念都市建設法が公布され、復興へ本格的に歩み始める広島を鮮明に記録している。これまで公開された写真にもない光景が含まれた貴重な資料だ。「復興するヒロシマ戦後五年ゑはがき」と題し、8枚が残っている。

 日英両語で「紙屋町付近ビル街」の説明が付く写真は、45年8月6日の原爆投下で全焼した銀行や生命保険のビルが修復された鯉城通りの東側と、空き地とバラックが目立つ西側を収める。50年当時の人口は約28万人だった。

 撮影はビルの懸垂幕からも50年夏と分かる。「8月6日 平和記念日 廣島銀行 藝備銀行 改稿」。広島銀行は被爆5年後のその日に現在の行名となる。

 鯉城通りの北端部分は「マッカーサー道路」と紹介している。旧西練兵場を貫き新設された幅40メートルの道路は、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官の名にちなみ呼ばれていた。朝鮮戦争が6月に起き、この年の平和祭(現平和記念式典)は米占領軍の圧力で中止となったが、特需景気に広島も沸いた。

 爆心地そばの西連寺境内に本通り商店街が作った安置所へ50年8月、移された「広島大仏」も収めていた。52年に平和記念公園に原爆慰霊碑ができるまで、原爆犠牲者を慰霊する場所となった。

 このほか、原爆ドーム前にあった昭和天皇の「行幸記念碑」(47年建設)や、にぎわいを取り戻す本通り商店街を紹介している。

 制作したのは廿日市市出身の片山弥三吉(やさきち)さん(1892~1951年)。台湾に渡って写真館を営み、27年には総督府鉄道部の風景写真展で特選を取っていた。日本の敗戦で46年に家族と戻り、ドームそばで観光客らの撮影をしていた。

復興途上で貴重

 広島の歴史資料に詳しい市公文書館の池本公二主幹の話 被爆後の広島の絵はがきは1958年の復興大博覧会を機に増えるが、片山さんによるものは観光整備されていない復興途上の貴重な資料だ。保存状態もよく、当館で公開したい。

(2012年1月4日朝刊掲載)