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ヒロシマ用語集

広島市立第三国民学校

学籍簿基に実態調査

 1939年、前身の広島市立第三高等小学校が開校。2年制で、6年間の義務教育を終えた生徒を受け入れていました。41年、市立第三国民学校に改称(かいしょう)。49年に現在の翠町(みどりまち)中に校名を変えました。

 翠町中によると、定員1100人の大規模校でしたが、疎開(そかい)などで、45年ごろには310人に減りました。

 広島原爆戦災誌によると、雑魚場(ざこば)町(現中区)での建物疎開に動員されていた143人と立町(同)の中国配電に出ていた9人が亡くなりました。

 翠町中では「戦災死児童学籍簿(がくせきぼ)」が事務室の戸棚(とだな)から見つかったのをきっかけに、被爆の実態を明らかにする運動を開始。生徒会を中心に、生き残った生徒や教員たちから聞き取りし、80年に冊子「空白の学籍簿」を作成しました。