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ヒロシマ用語集

広島市立第一工業学校

犠牲53人の名簿残す

 広島市立第一工業学校は1939年に設立されました。原爆が投下された時は、東雲町(現広島市南区)にあり、機械、電気、工業化学の三つの学科で生徒が学んでいました。

 被爆当時、3年生だった三宅敏行さんは「将来は軍需(ぐんじゅ)工場や変電所で働きたいという男子が多かった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 戦後、48年に廃止(はいし)され、広島市工業高になりました。翌年には、他の学校も含(ふく)めた大規模な再編で皆実高になるなど、複雑な変遷(へんせん)をたどり、県立広島工業高(南区出汐)に引(ひ)き継(つ)がれました。

 同窓会の事務所には、被爆死した生徒たちの名簿(めいぼ)の写しが大切に保管されています。そこには、水主(かこ)町(現中区加古町など)や鶴見町(現中区)へ建物疎開(そかい)作業に出ていたり、学徒動員先の工場で亡くなったりした生徒50人と教職員3人の名前が記されています。ただ、被爆死した生徒は、ほかにもいる可能性が高いそうです。