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ヒロシマ用語集

三菱重工業広島造船所

人間魚雷 45年に製造

 広島市の沿岸部には、三菱重工業の工場が2カ所あります。うち江波沖(えばおき)町(中区)の工場は戦時中、三菱重工業広島造船所と呼ばれていました。

 江波の沿岸が埋(う)め立(た)てられ、正式に工場が開所したのは1944年3月。一緒(いっしょ)に誕生した南観音町(現西区)の工場は、広島機械製作所と呼ばれました。

 広島造船所では44年6月、初めての船「久川(ひさかわ)丸」が完成、進水。45年4月からは、1人乗りで敵の艦船(かんせん)に突っ込む人間魚雷(ぎょらい)の製造を始めました。同じ頃(ころ)から、工場の「疎開(そかい)」が始まり、機械を江波の皿山や可部町(現安佐北区)に移転するなど、空襲(くうしゅう)に備えました。

 広島原爆戦災誌によると、被爆時の従業員数は、観音の工場と合わせて約9200人いたとされています。うち約3200人が動員学徒で、若い女性による「女子挺身(ていしん)隊」や朝鮮(ちょうせん)人労働者もいました。工場内の死亡者は3人でしたが、市中心部へ建物疎開に出ていた従業員ら40人が亡くなりました。