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ヒロシマ用語集

広島女子専門学校

火災を免れ救護所に

 広島女子専門学校(女専、現県立広島大、広島市南区)は、尋常(じんじょう)小学校(6年)と高等女学校(4、5年)を終えた女子が進学する学校として、1928年に開校しました。

 広島原爆戦災誌によると、原爆が落とされた6日は、1年生約160人と、病弱などで動員されなかった2、3年生約20人がいました。また、暁部隊(あかつきぶたい)(陸軍船舶司令部(りくぐんせんぱくしれいぶ))の兵士約60人も、宇品港での乗船を待って宿泊(しゅくはく)していました。

 爆心地から約3・3キロにあり、学校にいた人は、けがはしましたが、亡くなった人はいませんでした。東千田町(現中区)の寄宿舎で病気のため休んでいた2人が死亡。登校途中(とちゅう)などの6人が行方不明となり、死亡と判断されました。

 講堂は全壊(ぜんかい)。木造校舎も窓が割れたり傾いたりしたものの、火災は免(まぬが)れました。そのため校舎は、応急救護所として使われました。

 焼け野原となった市内は、大学や高等師範(しはん)学校がなくなったため、戦後約2年間、広島の文化の中心的な役割を担いました。