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ヒロシマ用語集

広島市立第一国民学校

増築し戦後も教室に

 今の段原中(広島市南区)は戦時中、広島市立第一国民学校と呼ばれていました。現在の小学校にあたる国民学校初等科(6年)を終えた子どもが、2年間通っていました。

 学校は1932年、現在地より約600メートル北の段原山崎町に、市立第一高等小学校として設立。軍事主義教育の色合いが濃(こ)い「国民学校令」の施行(せこう)により、41年、第一国民学校と改名されました。

 原爆の爆心地からは約2・6キロに位置していました。爆風(ばくふう)で木造の北校舎は倒壊(とうかい)。講堂や西、東の両校舎は窓枠や窓ガラスが壊(こわ)れました。被爆後、東校舎と講堂は臨時救護所になりました。

 生徒約650人は動員されていて、ほとんど学校にいませんでした。昭和町(現中区)で建物疎開(そかい)作業をしていた約150人のうち約50人が被爆死したとされています。

 鉄筋平屋だった東校舎は戦後、2階を増築。2011年4月に段原中が現在地に移転するまで、技術科の教室として長く使われました。