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ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第20号) 戦時中の情報統制

 私たちは今、さまざまな情報に囲まれています。新聞、放送、インターネット…。多彩(たさい)な項目の中から知りたい情報を選び、自由に接することができます。それは基本的な権利でもあります。

 ところが、今から70年前まで続いた戦争の時代には、こうしたことが制約されていました。太平洋戦争(1941~45年)中の暮らしを記憶(きおく)する広島市内の3人に聞くと、戦時中は今に比べて情報自体が少なく、質の面でも偏(かたよ)っていました。戦争遂行(すいこう)を最優先し、情報が制限されていたのです。

 今から見れば、不健全な情報環境(かんきょう)でした。でも当時の人たちは「それが普通」と信じ込まされていたのです。情報の使われ方の怖(こわ)さを感じました。

 対照的に、現代は多様な情報があふれています。豊かな情報に接することができる大切さをあらためて思いました。情報をコントロールされた過去を忘れず、千差万別の情報の中身を見極める意識を持ち続けたいです。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの45人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

日本の勝利を信じ込まされた

批判などできない。 窮屈な時代

坪井直さん(90) 切明千枝子さん(85) 畠山裕子さん(76)

●情報の中身

 市民の情報源は新聞やラジオが中心。戦況(せんきょう)報道が大半でした。「日本の勝利を信じ込まされていた」。3人は口をそろえます。

 戦争の影響(えいきょう)で物資が不足し、1944、45年ごろの新聞は表裏1枚だけ。広島工業専門学校(現広島大工学部)の学生だった坪井直さんは、広島市昭和町(現中区)の下宿近くの親類宅で新聞をまとめ読みしていました。「勝った、勝ったばかり。今思うと(国に)都合のいい情報だけだった」と話します。

 切明千枝子さんは、皆実町(現南区)の家の階段に父が据(す)えたラジオが一日中鳴っていたのを覚えています。いつ空襲(くうしゅう)警報が出るか分からなかったからです。近所の人も聴きに来ていました。戦況ニュースは、調子のよいときは軍艦(ぐんかん)マーチで始まりました。情勢が悪化すると「海行かば」。敗戦は美談にすり替わり、ニュース自体も少なくなりました。

 子ども向け番組の中でも「少国民の務めとして、兵隊さんに慰問袋(いもんぶくろ)を送ろう」などの呼び掛(か)けがあったそうです。

 近所単位の「隣組(となりぐみ)」の回覧板で、金属の供出、防火の徹底(てってい)などが細かく指図されました。畠山裕子さんは「みんなそれを普通と感じ、ニュースも信じていた。批判などできない窮屈(きゅうくつ)な時代だった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 押しつけの限られた情報の一方、空襲被害(ひがい)や自然災害などの情報は「風のうわさの方が正しいことが多かった」(切明さん)といいます。口コミや、学校の友達同士の会話などを通じて得た情報の方がむしろ役に立ったそうです。

●原爆と終戦

 45年8月6日に広島に投下された原爆は、大きな被害から「新型爆弾(ばくだん)」といわれたけれど、具体的な情報はほとんどありませんでした。「放射線の影響については何も知らされなかった」との思いは共通します。

 終戦時の天皇による「玉音放送」(8月15日)を学校の職員室で聴いた切明さんは「最後まで頑張(がんば)れ、と励(はげ)まされたのだと思った。先生に『負けたんだよ』と聞かされた。そんな…と思ったけど、もう夜の灯も気にしなくていいんだと、ほっとしました」。被爆の影響で終戦時は意識不明だった坪井さんは、目覚めたとき、復員した兄から敗戦を知らされました。「なかなか信じられなかった。情報を通じて、負けるはずがない、と洗脳されていたんだ」と言います。

●現代に助言

 「今は情報があふれている。選ぶのが大変」と皆(みな)さんは指摘(してき)します。インターネットなど新しい情報ツールもあります。半面、正しくない情報も飛び交っています。「若い皆さんは、どれが正しい情報か真実を見極め、選択(せんたく)してほしい。豊かな感性を養うことがその前提になります」。つらい時代を経験した、人生の先輩(せんぱい)たちの助言です。(文・高2松尾敢太郎、福嶋華奈、高1坪木茉里佳、写真・高2上原あゆみ、高1坪木茉里佳)

 つぼい・すなお 終戦時20歳。広島市西区在住、広島県被団協理事長

 きりあけ・ちえこ 終戦時15歳。広島市安佐南区在住

 はたけやま・ひろこ 終戦時6歳。広島市安佐南区在住

原爆資料館 落葉裕信学芸員に聞く

政府の意に沿った報道、戦争協力優先

 戦時中の情報環境について、広島市原爆資料館の落葉裕信学芸員(38)に解説してもらいました。(高1見崎麻梨菜、坪木茉里佳、中3上岡弘実)

 戦時中は、市民生活にもたらされる情報が一方的だったといえます。いわば「統制された情報」。国民を戦争に協力させることを何より優先したからです。新聞もラジオも、政府の意に沿わない報道はできませんでした。

 戦争は国民生活を制約します。不満を抱(いだ)かせないようにするために情報を統制。実際には戦況が厳しくても、戦果があるように大本営発表は伝えました。「大丈夫(だいじょうぶ)なのか」「戦争をやめよう」というムードになるのを防ぐためです。現実と食(く)い違(ちが)う、偏(かたよ)った情報となりました。

 国により情報が一元管理され、そのまま下りてくるのです。市民の間には、互いに監視(かんし)し合う雰囲気(ふんいき)も広がりました。「おかしいのでは」と思っても、異論を挟(はさ)めず、空襲が激しく生活が苦しくても戦争を続けないといけないような不自然な状況を強いられたのです。

 今は、さまざまなテーマについてだれもが自由に発言できます。戦時中は、そうした健全な環境になかったのです。

取材を終えて

中身見極める力 付けたい

 戦時中だったら、私たちも「軍国少年・少女」になっていたんじゃないかと思います。軍国主義教育の下、初めから、戦争に反対するという考え方にならなかったかも。たとえ疑問を感じても、周りを気にして声に出せなかったのではないか―。そう思うと怖(こわ)さを感じます。

 一番の問題点は、現実と違う情報を一方的に押し付けられ、多くの人が信じ込まされたことです。教育もメディアも、一つの方向に向けられていたといいます。「中国新聞八十年史」(1972年)には「読者は心から大本営発表を信じていたのである。…言論統制下にあったとはいえ、新聞の責任は重大」と記してありました。

 坪井さんは「教育とメディアが何より重要」と強調します。同時に、市民の側も、情報や現象をさまざまな視点から多角的にとらえる意識を持つことが大事なんだ、と痛感しました。

 戦時中と対照的に、現代は情報があふれ、発信もできます。私たちに必要とされるのは中身を見極める力です。うのみにするのではなく、それが正しいかどうかを自分でしっかり判断した上で、情報を受けとめ、発信していく必要があります。(高2林航平、中3上岡弘実)

(2015年10月22日朝刊掲載)

【編集後記】
 今回の取材を通して感じたのは情報をうのみにしてしまう危険性です。誤った情報を受け入れてしまったら、そのまま自分が第三者に間違いを伝え、それが広がってしまう恐れもあります。戦時中と違って情報のあふれる現在、慎重に考えないといけない問題だと感じました。ふだんから情報を吟味する目を持つよう意識していきたいです。(林)

 情報は私たちの生活に欠かせないものです。でも、時には間違った情報が流れることがあります。間違った情報に気づくための力を身につけることが必要だと分かりました。そのために、日々の学びを大切にしなくてはと感じます。(福嶋)

 有名人に関するうその情報がインターネットを中心に拡散され、多くの人を混乱させることがしばしばあります。僕自身も誤った情報に惑わされた経験があります。新聞も毎日読めなかった戦時中と違い、現代は手に入る情報が多すぎると感じます。技術の発達で発信源はさまざま。意図的に「うその情報」を流すことさえ可能です。手にした情報が本当に正しいのか、調べることが欠かせないと思いました。(松尾)

 戦時中は戦果などについてうその情報が流されていたことを知りました。今でもうその情報が世間にはあふれていると思います。ネット上で、あるサイトに書かれていることと別のサイトに書かれていることが違っていて、戸惑うことがあります。情報はよく吟味しないと危険だとあらためて思いました。(見崎)

 原爆資料館学芸員の落葉さんの話で、天気予報すらも「軍事機密」として隠されていたと知りました。国民には食料を生産しろと言いながら、それに密接に関係する天気の情報を伝えようとしないなんて変だ、と思いました。当時、政府がどれだけ情報に敏感になっていたかを示す事例と受け止めました。(上岡)

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