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ジュニアライター発信

Peace Seeds~10代がまく種~ <3> 被爆電車

復興の希望 走り続ける

 広島市内を走る路面電車は、原爆で大きな被害を受け、全面的にストップしました。でも、3日後には、焼(や)け跡(あと)のあちこちがまだくすぶっている中、一部の区間が復旧され、被爆者たちに復興への希望を呼び起こしました。今も活動する被爆車両や、一番電車を運転した元広島電鉄の社員、一番電車を題材に番組を作っている高校生…。「被爆電車」は現在も、ヒロシマの心を訴(うった)え続(つづ)けています。

2両が現役

動く遺産 平和教育にも

 被爆によって、広島電鉄にあった路面電車123両は、ほとんどが被害を受けました。現在も現役として活動しているのは、1942年製の2両。うち1両は広島市役所(中区)付近で半焼し、もう1両は南区で小破したのを修理して、翌年から使っています。

 維持(いじ)・管理を担当する車両課の東耕一課長は「古くなった部品を取り換えては使ってきました。手間がかかりますが、メンテナンスをしっかりすれば、今後も使えます」と話していました。特に、床(ゆか)など木を使った部分は、しばしば取(と)り換(か)えてきたそうです。

 新しいタイプの車両が登場するにつれ、馬力が弱くて車体が小さい被爆車両の出番は減ってきました。今、通常の運行としては広島駅―広島港などで主に朝だけ走っています。でも、被爆体験を聞くなど平和教育の場としては、毎月3、4回使われているそうです。

 イベントの企画(きかく)などを担当する電車企画課の山広昭善係長は「長崎市には被爆した路面電車は残っていません。観光資源としてだけではなく、動く被爆遺産としても大切にしていきたい」と語っていました。(高1岩田壮)

一番電車を運転

走っては点検 繰り返す

 被爆からわずか3日後、広島市内の路面電車は運転を再開し、人々は復興への希望を込(こ)めて「一番電車」と呼ぶようになりました。その日、最初に試運転をしたのが、広島電鉄に勤務していた山崎政雄さん(85)=廿日市市=です。

 8月6日朝、己斐(こい)駅(現在の西広島駅、西区)で一昼夜の勤務を終え、帰ろうとしていた時―。「ピカッと光って駅舎が揺(ゆ)れ、窓ガラスが飛んできました」。幸い大きなけがもせず、復旧作業に専念しました。

 3日後、同駅から西天満町(同区)まで復旧。運転する人がいなかったので、運転士の経験があった山崎さんが試運転のハンドルを握(にぎ)りました。少し走っては点検する繰(く)り返(かえ)しで、1キロ余りに30分かかりました。

 「鉄橋が落ちはしないか」といった恐怖(きょうふ)心しかなかったそうですが、「後に一番電車が希望の象徴(しょうちょう)だったといわれるようになり、今となっては誇(ほこ)らしく思います」と話しています。

 被爆後59年間、自身の体験を語ることはありませんでした。被爆者とは結婚(けっこん)したくないなどの偏見(へんけん)があったからです。でも、「被爆者は自分たちで最後にしなくては」と考え、語るようになりました。私たちはこの山崎さんの思いを心に刻み、引(ひ)き継(つ)いでいかなくてはならないと思いました。(中3芳本菜子)

五日市高放送部

記憶 新しい形で伝える

 五日市高放送部(広島市佐伯区)は、被爆電車を題材にした番組を2年前から制作しています。現在は、乗客を乗せた「一番電車」を運転した女学生の体験を漫画(まんが)にした孫娘(むすめ)のことをアナウンス部門の作品にまとめ、全国大会で発表するために、練習を重ねています。

 作品の題は「キオクヲツナグ~原爆に遭(あ)った少女の話」。漫画を描き、インターネットで発表したカナブンさんに取材して制作しました。「誰(だれ)かがこの話を伝えなければなりません」との思いを紹介(しょうかい)し、原爆の記憶(きおく)が新しい形で伝えられていると述べています。

 作品はわずか1分30秒。「本当に自分たちが伝えたいことを厳選して制作しました」と、部長の田中佑季さん(17)は話しています。7月の全国高校総合文化祭に向け、荷宮嗣麿(にみや・つぐまろ)教諭(41)たちと特訓をしています。

 放送部は廿日市(はつかいち)市にあった広島電鉄の駅舎を取材したことから一番電車を知り、ラジオの作品を作ってきました。田中さんは「自分も誰かに伝えなければと強い責任を感じました。作品を大会に出すことでより多くの人に被爆の記憶を伝えたい」と述べています。(高1上原あゆみ、中3溝上希・写真も)

<編修後記>

 被爆電車が原爆の傷跡も見せず、今も元気に活動しているのを知って、感動しました。実際に動くのを見る機会は少なくなっていますが、いつか乗客として乗ってみたいです。(高1・鼻岡舞子)

 今回は私がジュニアライターになって初めての取材でした。被爆電車を運転された方に直接お話を聞くのは、二度とない貴重な機会だと思いました。「被爆者は自分たちで最後にしなくては」という言葉の裏には、深い悲しみや怒りがあるのだと感じました。これからも、生の声を少しでも聞きたいです。(中3・芳本菜子)

(2014年6月10日朝刊掲載)

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