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ジュニアライター発信

Peace Seeds~10代がまく種~ <5> 海外からのヒロシマ支援 

復興の恩人 忘れない

 原爆で壊滅(かいめつ)的な被害を受けた広島は、「75年草木も生えぬ」とまで言われました。平和都市として復興を遂(と)げた背景には、広島市民のたゆまぬ努力とともに、国内外からの物心両面の支援がありました。原爆の日が近づくこの時期、あらためて海外からのヒロシマ支援(しえん)を思い起こす機会にできるはずです。

ジュノー医師

医薬品調達 心も癒やす

 赤十字国際委員会の駐日(ちゅうにち)代表を務めたスイス人医師の故マルセル・ジュノー氏は「広島の恩人」と呼ばれています。原爆投下から約1カ月後に外国人医師としていち早く広島に入りました。連合国軍総司令部(GHQ)を説(と)き伏(ふ)せて15トンもの医薬品を調達し、自らも医療(いりょう)活動を行いました。

 まだ日本にはなかったペニシリンなどの薬が使われ、絶大な効果をもたらしたそうです。混乱を極めた中、多くの命を救いました。原爆被害(ひがい)の残酷(ざんこく)さを世界に発信することも忘れませんでした。

 その足跡を私たちも学ぶことができます。NPO法人モーストの会などが中心になり4年前、アニメ映画「ジュノー」を完成させました。「モースト」はロシア語で「かけ橋(はし)」。国際医療支援(しえん)の団体として発足し、毒ガス戦の被害を受けたイランの人たちとの交流もしています。

 理事長の津谷静子さん(59)=広島市東区=は、困難を乗り越えて分け隔(へだ)てない支援を尽くしたジュノー氏について「傷ついた人に勇気を与(あた)える『心の薬』も届ける大切さを教えてくれた」と語ります。

 6月16日の命日に合わせて毎年、広島県医師会などが中区の平和大通り沿いにあるジュノー氏の顕彰碑(けんしょうひ)の前で記念祭を開催(かいさい)しています。今年は私も出席し、ジュノー氏の思いが時代を超えて受け継(つ)がれているのだと知りました。自分も次の世代に伝える「かけ橋」になりたいです。(高1二井谷栞)

シュモー氏

民家を建設 平和の礎に

 被爆後の広島では、家族も家も失った人が大勢いました。「原爆投下の償いを」と仲間とともに広島に駆(か)け付け、1949年から53年にかけて民家を建てたのが、米国人の森林学者、故フロイド・シュモー氏でした。

 皆実町(南区)や江波地区(中区)などに21軒(けん)建てました。「家を築き 理解を築けば 平和になる」と英語で書いた看板も掲(かか)げたそうです。共同作業を通して、国や人種を超えた相互(そうご)理解を育てることが平和の基礎(きそ)、ということでしょう。長崎市や朝鮮(ちょうせん)戦争後の韓国(かんこく)でも住宅建設に尽(つ)くしました。

 完成した住宅を贈(おく)られた広島市が、シュモー氏の名前を付けようとしたところ、本人は断ったといいます。多くの人の寄付金で賄(まかな)われたのであり、自分は代弁者にすぎない、と。

 米国人が、原爆被害者のために行動を起こすこと自体、簡単でなかったはずです。「シュモーさんの『ヒロシマの家』を語りつぐ会」の今田洋子さん(70)=中区=は「シュモーさんの控(ひか)えめさゆえ歴史に埋(う)もれることがあってはなりません」と訴(うった)えます。

 にこやかに作業をするシュモー氏の写真が残っています。不慣れでも日本式の家屋を建てたのは、住む人の生活文化を尊重したからでした。相手を思いやる支援(しえん)だったことが伝わってきます。(中3山田千秋)

ゆかりの人の関連資料展示 シュモーハウス

 シュモー氏たちが建てた21軒(けん)のうち、中区江波二本松の1軒が唯一(ゆいいつ)残っています。集会所として長年使われましたが、新しい道路の予定地になり一時は取り壊(こわ)しの危機に直面しました。保存を求める市民の声を広島市が聞き入れ、建物ごと40メートル移動させました。2012年、原爆資料館の分館「シュモーハウス」として再出発しました。

 シュモー氏自筆の手紙や実際に使ったハンマーが展示されています。原爆で親を失った子どもと海外を結ぶ「養子縁組(えんぐみ)」などを進めた米国のジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏をはじめ、被爆後に届いたさまざま支援やゆかりの人についても説明しています。

 広島の歩みは、被爆地に心を寄せた多くの人の良心に支えられてきたのです。「忘れないで」と小さな家が語(かた)り掛(か)けています。(高2了戒友梨)

<編集後記>

 今回は久しぶりの取材だったので、文章にするのに少し苦労しました。また、字数を大幅に超えてしまったため、短くするのが大変でした。私もシュモーさんたちのように、人のためにできることをしたいと思いました。(高2了戒友梨)

ジュノー博士と津谷さんの、困っている人を助けたいという優しさや、それを実行する心の強さに憧れました。私もそんな生き方ができるよう、津谷さんがおっしゃっていた「人は心が大事。」という言葉を胸に日々努力します。(高1二井谷栞)

 私は、今回取材をさせてもらってシュモーさんの生涯とそれを伝えようとしている人たち、主に今田さんたちのことを知ることができました。今田さんたちの話を聞いていてシュモーさんがどれほど平和を大切にしていたか、ということを実感し、またシュモーさんの平和への思いが一度もゆるがなかったその信念に、私はうらやましくも感じました。私もシュモーさんのような強い心を持った人間になりたいです。(中3山田千秋)

(2014年7月14日朝刊掲載)

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