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ジュニアライター発信

Peace Seeds~10代がまく種~ <9> 小学校にある平和資料館 惨禍伝える被爆校舎

 爆心地から500メートル以内にある広島市中区の袋町小と本川小には、平和資料館があります。ともに20世紀前半に建てられ、原爆の爆風と熱線に耐(た)えた鉄筋造りの校舎を、一部保存して利用しています。原爆は、疎開(そかい)せずに残っていた低学年を中心に、ほとんどの在校生の命を奪(うば)いました。あの日の惨禍(さんか)を伝える2校の資料館を訪れました。

■袋町小

壁に安否確認の「伝言」

 爆心地から約460メートルの距離(きょり)にある袋町小の平和資料館は、被爆した西校舎の一部を保存した建物です。館内の壁(かべ)には被爆後、救護所となった学校を訪れた人たちが、児童や住民の安否を確かめるために書いた「伝言」が残っています。

 校舎の建(た)て替(か)えを控(ひか)えた1999年に調査した時、壁のしっくいを剝がした所から「寮内」という文字が見つかりました。これをきっかけに専門家による本格的な調査が始まりました。

 伝言は45年10月、文部省学術調査団の故菊池俊吉(きくち・しゅんきち)さんが撮影していました。写真には、すすで黒くなった壁にチョークで「八月十二日 木村先生来校 皆様によろしく との伝言あり 加藤」など、当時の教員たちが記した言葉が写っていました。チョークは石灰でできており、水分を吸収して固まる特性があるので、文字を残すことができました。

 あの日、学校には児童約140人がいましたが、生き残ったのは、深さ3メートルの地下室にいた3人だけ。ほとんどは亡くなりました。ほんの何秒かの差が生死を分けたのです。その地下室も残されています。

 同小は、被爆地の子どもとして正しい知識を身に付け、平和に貢献(こうけん)できる人になってほしいとの思いで平和教育を続けています。毎月、学年ごとに交代して、資料館と、慰霊碑(いれいひ)のある近くの袋町公園を掃除(そうじ)しています。大切に残し継承(けいしょう)していこうという取り組みです。修学旅行で毎年広島を訪れる兵庫県西宮市の児童には、6年生が資料館を案内し、自分の言葉で説明しています。

 平本英二校長(56)は「資料館は生きた被爆の証人。地元の人にも立ち寄ってもらい、命の尊さについて考えてほしい」と訴(うった)えています。(中3芳本菜子)

■本川小

遺物触って感じて

 本川小は、爆心地から約410メートルと最も近い学校です。原爆で校内にいた児童約400人が亡くなりました。平和資料館は、1928年に市内の公立小で初めて建てられた鉄筋3階建ての校舎の一部を使い、88年に開館しました。校内で見つかった溶けたガラス瓶(びん)など約60点を展示し、一部は手で触(さわ)ることができるのが特徴です。

 2004年、児童が校庭にビオトープを作ろうとした時、熱で溶けたガラス瓶(びん)や瓦(かわら)を見つけました。原形をとどめず、くしゃくしゃに固まったその形は、熱線のすさまじさを物語っています。「今も原爆の遺物は校内に眠っているはず。核兵器(かくへいき)の恐(おそ)ろしさを身近に感じてもらい、再び使えば、もっとひどい被害(ひがい)になることを知ってほしい」。同小で14年間、資料館のガイドをしている岩田美穂さん(56)は願います。

 旧広島県産業奨励館(さんぎょうしょうれいかん)(現原爆ドーム)のバルコニーに使われていた御影石(みかげいし)も展示しています。被爆の衝撃(しょうげき)で崩(くず)れ落ち、そばを流れる元安川の岸辺にあった石を10年、本川小の児童らが引き上げました。実際に触(さわ)ってみると、熱線を浴びて表面はごつごつした感触(かんしょく)がしました。

 ほかには、かつて原爆資料館(中区)にあった被爆直後の市街地のパノラマ模型や、原爆投下の翌年に芽生え、人々に夢と希望を与えつつも枯れてしまった校内のニワウルシの切り株も展示されています。河野一則校長(58)は「自分の手で触(ふ)れて人々の叫(さけ)びを感じ取り、核兵器(かくへいき)をなくすため、どのような行動をとればいいか考えて」と話しています。(高1岩田壮)

「当時の場所で保存」重要

宇吹暁元教授に聞く

 袋町小や本川小が被爆した校舎を平和資料館として残している意義や今後の活用法について、ヒロシマの戦後史に詳(くわ)しい元広島女学院大教授の宇吹暁(うぶき・さとる)さん(68)=写真、呉市=に聞きました。

 どちらも爆心地から500メートル以内にもかかわらず倒壊しなかったのは、鉄筋造りだったためです。ともに原爆でほとんどの在校生と教職員を失いました。「爆心地に近く被害の大きかった場所で、建物が被爆に耐(た)えて残っていただけでも貴重だ」と話します。

 1980~90年代には老朽化(ろうきゅうか)のため、建(た)て替(か)える時期を迎(むか)えました。保存に至った背景には、建物の大切さを訴(うった)える卒業生や住民たちの要望があったそうです。全体をそのまま残すことはできませんでしたが、2校とも一部を保存することができました。

 被爆当時とは別の場所に移転して保存している建物もありますが、「当時あった場所にそのまま残すことが重要。その場にいると想像力が働く。これだけ悲しい出来事が、平和だと思われている日本で起きたことを忘れてはいけない」と指摘します。袋町小の壁(かべ)の伝言が見つかった時も、同じ場所に現物が残っていたことに感動したそうです。被爆当時の市民の混乱や生活を知る手掛(てが)かりにもなります。

 被爆校舎を利用した資料館が小学校にあることで、児童は日常生活の中で、平和について学ぶ機会に接します。遺跡巡(いせきめぐ)りのコースに取り入れたり、海外に発信したりすることで、多くの人に重要性に気づいてもらえると提案しています。(高1鼻岡舞子、写真は高2平田智子)

(2014年9月22日朝刊掲載)

《編集後記》

 「文化で平和を伝える」。よくこういう言葉を耳にしますが、私はこの意味がよく分かっていませんでした。今回、宇吹さんから「音楽などを通して、平和への関心を広げていけたらいい」という話を聞きました。自分の関心のあることから平和への考えを深めていけるのだと知って驚き、このようにして平和に対する関心が高まればいいなと感じます。(高2平田智子)

 小学校でもこれだけ充実した平和学習をしていたことに、かなり驚きました。それぞれの学校が特徴を生かし、原爆の恐ろしさを伝えていました。被爆を経験した人々が少なくなる中、被爆体験を伝えるためには学校が重要だと理解しました。(高1岩田壮)

 今回、私はすべての取材に参加しました。小学校の平和資料館はどちらもひっそりとしていました。校長先生から広島県内からの来館者が一番少ないということを聞いて、もったいないように感じました。学校教育などで積極的に利用してほしいと思います。当時の場所に今もあるからこそ伝えられることを、大事にしたいです。(高1鼻岡舞子)

 自分は袋町小の卒業生なのですが、今回、久しぶりに母校の平和資料館を訪れました。小学生のころにはなかった新たな視点から学ぶことができました。小学校の平和教育は自分がいたころと少し変化していましたが、今も変わらず資料館を掃除する活動が続いていたことはうれしかったです。それぞれが大事に継承していこうとする気持ちが大切だと、あらためて実感しました。(中2芳本菜子)

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