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ジュニアライター発信

Peaceあすへのバトン 10年目のジュニアライター卒業生の今 特別支援学校教諭・本川裕太郎さん=福山市

子どもたちと共に成長

 「この時間の目標です。一つ目はそれぞれの仕事を頑張る。で、二つ目は友達をしっかり応援します」。授業では、笑顔でゆっくりと子どもたちに話し掛けます。初任地である福山北特別支援学校(福山市)に来てほぼ1年。本年度は5年生6人のクラスの担任になりました。「子どもと楽しく遊んだり勉強したり。他のクラスの子からも声を掛けてもらっている」とほほ笑みます。

 勤め始めた昨年4月は「頭がパンクしそうになった」。知的障害のある子どもたちの特性を把握するだけではないからです。国語、算数は子どもによって進度が違うため、使うプリントも6通り。ペアを組む先生と分担し、児童3人分の授業、毎日の宿題用のプリントを、試行錯誤しながら作る日々が続きました。

 年末までに体重は10キロ減り、周囲からも心配されました。しかし「心の底から『あー楽しかった』と言うのを聞けたからよかった」と振り返ります。

 本当は、子どものころから新聞記者になりたいと思っていました。小学6年から中学3年まで中国新聞の子ども記者を務め、新聞に「将来は(広島東洋)カープ担当の記者になろうと決めた」と書きました。

 しかし夢かなわず、落ち込んでいた大学4年の時です。大学2年の春休みから就職活動前までボランティアで参加していた、目の不自由な子ども向けのフリークライミング教室のインストラクターに、駅の構内でばったり再会したのです。

 再び参加するようになったボランティア。目の見えない子どもたちが、どのくらい手を伸ばしたら「ホールド」と呼ばれる石をつかめるのか―。壁の前で泣いてばかりいた8歳の男の子が、インストラクターの優しい声掛けで落ち着き、壁につかまれるようになるまでになっていきました。

 「苦手なところを克服しながら成長していく子どもに関われたら…」。保育士の母の背中を見て育ったせいか、子ども好きでもあり、特別支援学校の教諭を目指すことにしました。

 とはいえ、教職課程は履修していませんでした。大学卒業とともに東京から広島に戻り、広島市内の中学校で筋ジストロフィーの生徒の身辺介助の仕事をしながら2年間、通信制の大学で学び、小学校と特別支援学校の教員免許を取りました。

 ジュニアライターの時、人間魚雷「回天」の隊員だった人から聞いた言葉が心に残っています。「今の若者は自由に恵まれているのだから、もっと勉強して、自分の頭で考え判断して平和に貢献してほしい」

 今の教育にもつながっていると考えています。「言われてできるのではなく、自分で見通しを持って動けるようになれば」。繰り返すことで成長する子どもたちを温かく見守ります。「この仕事が僕に合っている」。そう思っています。(二井理江)

(2016年3月28日朝刊掲載)

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