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ジュニアライター発信

ジュニアライター 歩き探る震災復興

 中国新聞のジュニアライターや卒業生が夏休みを利用して、東日本大震災で被災(ひさい)した宮城、岩手両県を訪れた。津波(つなみ)を受け、壁(かべ)がはがれて窓枠(まどわく)だけが残った、人影(ひとかげ)のない小学校。川べりから数メートルのところで途切れたままの橋。雑草が茂(しげ)る海岸そば。そんな中、ボランティア参加や、地元の中学生との交流を通して、被害の大きさ、復興の意味を考えた。(二井理江)

岩手・大船渡

 

泥出し作業 中学生交流

 

まちには今も津波の爪痕


 岩手県大船渡市(おおふなとし)の海岸近くには、建物がたくさんあったとは思えないほど何もなくなって、がれきだけが目立っていました。越喜来(おきらい)小の校舎は3階まで窓がなく、体育館も屋根がはがれて壁(かべ)がなくなったまま。幸い、子どもたちは無事だったそうです。

 私は、小学校から少し離(はな)れた道路の側溝(そっこう)の泥出し作業をしました。ふたを開けて、中に入ると腰の高さまでの深さがありました。中は腐(くさ)ったような臭い。足元には津波(つなみ)によるヘドロがたまり、貝がらや瓦(かわら)、ガラス、ハンガーも入っていました。長靴(ながぐつ)がはまって動けないくらいでした。家まで動かすような波が来たことの実感がわいて、怖(こわ)かったです。

 岩手日報の大船渡支局長、鹿糠(かぬか)敏和さん(33)は、地震の起きた日、津波の取材をしに高台に向かう途中(とちゅう)、津波到達(とうたつ)時刻が近づいたため、とっさに5階建てのスーパーの屋上に逃げました。

 その建物は今もそのままありました。もちろん営業はしていません。鹿糠さんが車を止めた3階建ての立体駐車場は、壁がはがれて柱だけになっていました。もし鹿糠さんがそこにいたままだったらと考えると、ゾッとしました。

 大船渡市では、行政のハザードマップで津波が来ないとされていた場所にいて「ここまでこないだろう」と考えて逃(に)げ遅(おく)れた人も多かったそうです。「いかに津波を防ぐかでなく、いかに逃げやすくするかが大切」と鹿糠さんは教えてくれました。(高1・来山祥子)

学校新聞に託した「希望」


 「被災地、被災者といつまでも呼ばないでほしい。被災はしたけど、今は復興に向かっている。乗(の)り越(こ)えて頑張(がんば)っている途中(とちゅう)」。交流した大船渡市の第一中3年宮田康矢君(14)は、そう語りました。

 同中は、地域のために何かできないかと考えて、震災直後の昨年3月18日から「希望」という学校新聞を発行しています。

 海から少し離(はな)れた高い場所にあるため、校舎や生徒は無事でした。しかし、家が流されたり避難所生活を強いられたりした子もいます。今も校庭には120戸の仮設住宅が並んでいます。

 新聞の内容は、修学旅行や仮設住宅の人たちとの交流会など学校行事を中心に、他地域からの支援(しえん)があれば感謝の気持ちとともに紹介(しょうかい)します。

 「後ろ向きな記事は書かない」との思いで、生徒会を中心に、現在22号まで発行。お年寄りが多いのが特徴(とくちょう)の仮設住宅の人にも配っています。生徒は一緒(いっしょ)に花を植えたり、積雪時には雪かきをしたりしています。

 震災から1年半。仮設住宅に住む高齢者(こうれいしゃ)との交流は進んでいます。「自分たちが知らないことをたくさん知っている。昔の三陸地方の事や方言など学びたい」。生徒たちは今、地域との触(ふ)れ合いやつながりをとても大切にしています。

 最後に、私たちが6日に平和記念公園(広島市中区)を訪れた中高生たちにメッセージを書いてもらった色紙を渡(わた)しました。(高2・井上奏菜)

仙台

 

畑のがれき除去

 

手作業が頼り 苦労知る


 広い大地にぐんぐんと伸(の)びる野草。一見、ただの田舎の風景ですが、異なるところがあります。雑草を抜(ぬ)くと、地面に何やら光る赤いものが埋(う)まっていました。拾い上げると、丸い盆(ぼん)でした。

 私は、仙台市若林区の荒浜(あらはま)で農地再生ボランティアに参加しました。畑の中のがれき拾いです。柱などの大きながれきは重機などで撤去(てっきょ)されたものの、小さながれきはむしろ重機に踏(ふ)みつけられ、地中に埋まってしまったのです。そのがれきを撤去するには手で拾うしかありません。

 夏には雑草が生(お)い茂(しげ)り、抜かなくてはなりません。大きな農地を前に、重労働で腰(こし)が痛くなりました。が、しっかり働けたので、少しでも被災地に貢献(こうけん)できたようで、楽しかったです。

 さらに荒浜の海岸沿いにある慰霊碑(いれいひ)にも行きました。そこで、父親を震災で亡くした30代の女性と出会いました。いろいろな思い出や荒浜のことを話してくれました。今は何もない荒野(こうや)ですが、ここに、家があり、町があり、人々が私たちと同じように生活していたのです。彼女の言葉で、震災がどれだけの人と人生に揺(ゆ)さぶりをかけたのか、痛感させられました。(高1・佐々木玲奈)

宮城・石巻

 

子ども支援ボランティア

 

真剣に遊び強まった信頼


 宮城県石巻市で5日間、子どもを支援(しえん)するボランティアをしました。午前中は日替わりで市内の小学校を訪問。プール掃除(そうじ)や図書室の本の整理をしました。昨年はプールが使えなかった学校が多く、泥(どろ)や葉っぱがたまったのをブラシでこすったり、高圧洗浄機できれいにしたりしました。

 図書室では、支援物資として送られた本を分類。カバー付けもしました。こうして、子どもや先生には、震災で遅れがちな授業に専念してもらうのです。

 午後は、仮設住宅団地内の集会所に、子どもが自由に遊べる「みんなの場」を開き、クッキー作りや手芸、ブロック遊びをしました。子どもたちは、これまで一緒(いっしょ)に遊んだボランティアの名前と顔を覚えています。

 少しは子どもたちの力や楽しみになっているのではないかと思うと、「何をすれば、もっとこの子たちの役に立てるのか」と考えるようになりました。一緒に遊ぶ時も「子どもたちは変な同情より全力でかかってくる遊び相手がほしいのでは」と思い、真剣(しんけん)に追いかけっこや取っ組み合いをして遊びました。

 5日間は短く、できつつあった子どもたちとの信頼(しんらい)関係や絆(きずな)をそのまま置いて帰るのはもったいなかったです。「続けることの意味」が少し見えた気がしました。必ずまた行って子どもたちを支援したいと強く感じました。(大1・古川聖良)

(2012年8月27日朝刊掲載)

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