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ジュニアライター発信

『ジュニアライター発』 カメラマン松重美人さん没後10年 あの日の惨事を追体験

 中国新聞社の写真部員だった松重美人さんが2005年1月16日に92歳で亡くなって10年になるのを前に、松重さんが原爆投下の日に撮影(さつえい)して歩いた道をたどりました。

 中国軍管区司令部の報道班員でもあった松重さんは、広島市翠(みどり)町の自宅(現南区西翠町、爆心地から約2・7キロ)で被爆。顔から胸にかけて無数のガラスの破片が刺(さ)さりました。その後、中国新聞社か司令部へ行こうと、爆風(ばくふう)で欄干(らんかん)の壊(こわ)れた御幸橋(みゆきばし)を渡(わた)りました。京橋川の上流から山のように重なる被災(ひさい)者が流れており、地獄(じごく)だったと言います。

 むごい、カメラを向けることが苦痛、写していいのか、しかし写真しかない、カメラマンとしての使命だ、と30分悩(なや)んだ末、震(ふる)える手で、1枚目のシャッターを切りました。この写真は大きなパネルにされて御幸橋の西詰(づ)めに置かれ、あの日の惨事(さんじ)を今に伝えています。さらに近づいて2枚目の写真を撮(と)ったときには、涙(なみだ)でファインダーが曇(くも)っていたそうです。

 その後、自宅に戻(もど)って写真を2枚撮影した後、カメラを取りに、上流川町(現中区胡町)の中国新聞社に向かいました。しかし、中は異様な熱気で入れず、紙屋町(現中区)や袋町(同)の方を歩きました。爆心地に近く、人影(ひとかげ)もなく静まり返っていたそうです。再び御幸橋を越(こ)えて、皆実(みなみ)町(現南区)の専売局前で5枚目の写真を撮った時には午後5時になっていました。

 案内してくれたヒロシマ・ピース・ボランティア代表幹事の大西知子さん(65)は「松重さんは物静かで穏(おだ)やかな人だった」と言います。しかし核(かく)の話題になると表情が一変し、国内外で反核運動を続けていたそうです。大西さんは、ジュニアライターの私たちに「被爆者に寄(よ)り添(そ)い、みんなに伝えていくことは使命だ」と話しました。被爆から70年近くになり風化が進む今、松重さんや大西さんのように、私も多くの人に核兵器の恐ろしさを伝えていきたいです。(中3正出七瀬)

(2015年1月12日朝刊掲載)

フィールドワークした他のジュニアライターの感想は次の通りです。(順不同)

 歩き終わると足がパンパンになっていました。私たちが遠いと感じる距離を、戦時中で栄養不足、しかも道も火災で焼けている時「中国新聞社か中国軍管区司令部に行く」と、職務を全うするため歩き続けた松重さんを尊敬します。(中1藤井志穂)

 私は、御幸橋の近くに住んでいるので松重さんが8月6日に撮影した写真は、見たことがありました。けれど、松重さんが、ちゅうちょしながらも、後世に伝えなければならないという強い意志で写真を撮影されていたことを初めて知りました。冬休み最後の貴重な体験ができ、とてもうれしいです。大西さんありがとうございました。(中1鬼頭里歩)

 松重さんは、自ら被害に遭っていながら写真を残しました。そんな松重さんについて、自分は今回のフィールドワークの前まで知りませんでした。苦しみながらも後世の人のためにシャッターを切った点をもっとたくさんの人に知ってほしいです。(高1岩田壮)

 今回のフィールドワークはとてもつらかったです。松重さんは、原爆で傷ついた人や悲しみにくれる人を撮影するべきか撮影せずにおくべきか迷った末に撮影しました。その決断は、カメラマンの使命を感じたからだと思います。フィールドワークのときにカメラを 持っていたぼくは、いつもは気軽にシャッターを押すのに、今日はとてもそんな気持ちになれませんでした。

 ケビン・カーター氏がピュリツァー賞をとった「ハゲワシと少女」という写真を見たことがあります。伝えるために写真を撮るべきか、伝えることよりも目の前の人を助けるべきか。最終的に撮影した松重さんのカメラで撮ることへの責任感が心に突き刺さりました。(中1川岸言統)

 学校の平和学習でよく見る御幸橋の原爆被害の写真は、松重美人さんによって撮影されたものだと知り、驚きました。今は高い建物が立ち並んでいる場所が当時は火の海で、橋も崩れて、被爆者であふれていたと考えると信じられませんでした。(中3山本菜々穂)

 私は今まで松重美人さんを知りませんでした。でも、街を歩いて、松重さんの記者としての魂が、悲惨な状況でもシャッターを切る後押しをしていたということが伝わりました。規模は違うけれど、同じ記者として尊敬以上の、記者の鏡のような人です。(小6目黒美貴)

 松重さんの写真とその写真が写された場所を見比べると、とても同じ場所とは思えませんでした。身も心もぼろぼろにされながらも、広島の街をここまで復興させた当時の人々を、私は尊敬すると同時に、このようなことが二度とないようにするために自分に何ができるか考えようと、あらためて思いました。(高1二井谷栞)

 「原爆投下」という、悲劇と混乱の中で、カメラを持ち、後世に伝えるため、そして記者としての使命を果たすためにシャッターを押した松重さんは、本当に立派だと思います。私も松重さんの記者魂を見習いたいです。(中1川市奈々)

 あらためて原爆というものを少し体感できた気がしました。ひどい惨状を目の前にして、涙しながら必死にシャッターを押した松重さんの記者根性は本当に尊敬すべきことだと思いました。松重さんのように現実に向き合い、自分が後世に伝えていかなくてはいけないという思いを持ち、これからもジュニアライターを続けたいです。(中3見崎麻梨菜)

 平和学習で1度は見たことのある写真。撮影の背景には、やけどに苦しむ人に申し訳なく思う気持ちやためらいがあったことを初めて知りました。今回感じた5枚の写真の重み、後世に残すという松重さんの強い使命感を僕たちは受け継ぐべきだと思いました。(高1松尾敢太郎)

 御幸橋にある写真は初めて原爆のことを教えてもらった時に見ました。でも松重さんの葛藤は今回初めて知りました。松重さんはもう亡くなっていますが、写真を通して思いや当時の状況は現在でも見ることができます。なので、写真は後世に伝えるのに役に立つと思いました。(高1岡田春海)

 僕は、松重さんが平野町付近の様子を「火のトンネル」と表現しているのが印象に残りました。今自分が歩いている場所で、そのような地獄があったとはどうしても想像できなかったからです。同時に、今の生活がどれだけ平和であるかということを感じました。(高1谷口信乃)

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