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ジュニアライター発信

Peace Seeds ~ヒロシマの10代がまく種( 第8号) 「大久野島の光と影」

 瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのしま)(竹原市)は「ウサギの島」と呼ばれます。700匹ともいわれる野生化したウサギが訪れる人を迎えます。黒や薄茶色、まだら模様…。何匹も寄ってきて、「ピーターラビット」の世界に入ったよう。

 今でこそ穏(おだ)やかなリゾートとして親しまれていますが、第2次世界大戦の終戦前まで約15年間にわたり、この島では毒ガスが造られていたのです。

 当時の様子を物語る毒ガス貯蔵庫などの遺構が残っています。生(お)い茂(しげ)る草に囲まれた遺構の前に立つと、そこだけ時が止まっているようでした。周りの平和な景色とは別世界。戦時中、人を殺傷する化学兵器を造っていたという事実を目の前に突(つ)きつけられた気持ちになりました。

 広島の原爆被害は国内外でよく知られています。一方、同じ広島県内の島で毒ガスが造られていたことはあまり知られていないと思います。こうした事実、そして加害の責任も私たちはきちんと知るべきだと感じました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校3年までの49人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

平和な行楽地 加害の歴史

島の歩み

1927年 島の全てが軍用地化され、工場建設始まる
  29年 毒ガス製造開始
  41年 大久野島の毒ガス生産量ピーク。太平洋戦争始まる
  43年 大久野島への学徒動員開始
  44年 毒ガス製造を中止。風船爆弾の気球部分などの生産に切り替え

1945年 終戦。翌年から島の毒ガス処理作業

  63年 大久野島国民休暇村(現休暇村大久野島)オープン
  85年 島に毒ガス障害死没者慰霊碑建立
  88年 竹原市などが毒ガス資料館を開設
2003年 中国黒竜江省チチハル市で旧日本軍のイペリットガス缶出土。大久
      野島で造られたとみられる。44人が毒ガス傷害(うち1人死亡)
  09年 大久野島沖の海底から毒ガス弾とみられる不審物23点を回収。そ
      の後、一部はくしゃみ性ガス弾と確認。環境省は「周辺の環境に影
      響ない」

毒ガス造った戦時 今はウサギの歓迎

 大久野島は周囲4・3キロの小島です。竹原市の忠海(ただのうみ)港から船で10分余り。桟橋(さんばし)を下りると、ウサギが集まってきました。「かわいい!」の声が上がります。訪れる人は子どもから大人まで笑顔。「ウサギの島」「癒(い)やしの島」といわれるゆえんです。

 飲食や宿泊ができる休暇村(きゅうかむら)大久野島、島の自然を紹介する環境省(かんきょうしょう)のビジターセンターなどがあり、2014年は約18万6千人が訪れました。

 その同じ島に、戦争遺跡(いせき)や毒ガス製造関連の遺構があります。休暇村のすぐ近くにも毒ガス貯蔵庫跡や防空壕(ぼうくうごう)跡。テニスコート北隣には、100トンタンクが六つ置かれていたという巨大(きょだい)な長浦毒ガス貯蔵庫跡がそびえていました。

 島は旧日本軍の毒ガス製造拠点(きょてん)でした。戦時中は「秘密の島」として地図から消されていました。

 島内にある毒ガス資料館などによると、1929年から終戦前年の44年7月まで、イペリットガス、くしゃみ性ガスなど計約6600トンの毒ガスを製造。中国などで実際に使われ、民間人を含む多くの犠牲者を出したといわれます。

 動員学徒たちを含めて島では約6500人が毒ガス関連など秘密の作業に当たりました。皮膚がただれたりのどがかれたりする事故も発生。亡くなった人も多く、後遺症(こういしょう)に今も苦しむ人がいるそうです。資料館に並ぶ、陶器の製造器具類や防護服、人体被害の写真などから、その恐ろしさが伝わってきます。

 毒ガス島歴史研究所の山内正之事務局長(70)=竹原市=は「毒ガスは無差別に人を傷つける点で核兵器と同じ。それを造っていた事実を知ってほしい。戦争は被害の側はもちろん、加害の側も心に傷を負うなど悲惨(ひさん)。過ちを繰り返さないため、歴史の事実を学んでほしい」と話します。(高2山下未来、森本芽依、中2鬼頭里歩)

戦争参加 意思と無関係

作業にかかわった岡田さん

 戦時中、動員学徒として大久野島で作業に従事した岡田黎子(れいこ)さん(85)=写真・三原市=に話を聞きました。当時は忠海高等女学校(現忠海高)の生徒。でも、1944年秋から翌年の終戦まで、学校ではなく島に通い、毒ガス缶運搬(うんぱん)などの作業をさせられました。15歳の少女でしたが「準軍属」という扱(あつか)い。同年代の私たちが今、当たり前のように学校に通うのとは大違いです。

 岡田さんは朝6時に起き、朝食後、呉線の汽車で忠海の港に向かいます。船で大久野島に渡り、午前8時15分の朝礼から午後4時まで働く日々。休みもあまりありません。発煙筒(はつえんとう)作りや毒ガス缶運搬、風船爆弾の部品製造などをしました。「なかでも運搬作業はつらくて危険でした」。容器からしみ出す毒物のせいで、夕方にはみんな涙やくしゃみが出たそうです。

 疲れて帰り、夕飯を食べて夜9時前には寝ていました。床(とこ)に就(つ)くまでのわずかな時間が唯一自由な時。とはいっても、ときどき教科書を開いたり、絵日記を描いたりするのがやっとでした。島でのことは「家族といえども話してはならない」と口止めされていました。

 今と一番違うのは、勉強などやりたいことをする自由がなかったこと。人権が奪われていたのです。「自分の意思と無関係に戦争に参加させられ、人間らしい豊かな時間は何もなかった」と振(ふ)り返ります。

 私たちには今、勉強する時間があります。うれしいことやつらいことを自由に表現できます。当たり前と思えるそうしたことに感謝し、平和な世の中を守り、一日一日を大切に精いっぱい生きたいです。(高1坪木茉里佳、中2川岸言統)

ヒロシマと同じように見つめたい

 人類史上初めて原爆が投下され、甚大(じんだい)な被害を受けた広島市。平和記念公園にある原爆資料館(中区)には世界中から多くの人が訪れ、被爆の惨状(さんじょう)に触(ふ)れて平和への思いを新たにします。2014年度の入館者数は約131万4千人です。それに対し、加害の歴史を物語る大久野島の注目度はいまひとつに映ります。

 島にある毒ガス資料館の入館者数は約4万9500人(14年度)。アクセスの不便な立地や、こぢんまりした規模などを考えても、ヒロシマとの差が大きすぎると思います。

 原爆も毒ガスも、無差別に大量に人を殺傷し、後々まで体に害を及(およ)ぼす非人道的な兵器です。国際条約で毒ガス使用が禁じられていながら、旧日本軍は主に中国で使い、大陸にそのまま遺棄(いき)しました。03年には中国黒竜江省チチハル市で、捨てられていたドラム缶から漏(も)れた毒液で44人の死傷者が出ています。

 ヒロシマという被害の過去、大久野島の毒ガス製造という加害の過去―。どちらも今日に人類の負の歴史を伝えています。加害の歴史について、被害とともにきちんと知り、継承(けいしょう)していかなくてはなりません。ウサギに会いに行くときも、戦時の大久野島の姿を見つめたいです。(高2中原維新、新本悠花、高1正出七瀬)

(2015年4月23日朝刊掲載)

【編集後記】

 取材で大久野島に行くと決まったときには、うれしい、という率直な思いだけがありました。しかし、取材を経た今は、大久野島の知られていない一面を知ってほしい、という気持ちになっています。ウサギたちを見に来るのみではなく、加害の歴史も併せ持つ島の姿を見に来てほしいと思います。(中原)

 資料館の展示物によると、毒ガス工場では剣道大会を実施していたそうです。技能賞や証書類の展示もありました。私たちの今の学校と同じような行事や表彰が工場であったのは驚きでした。しかし労働条件はかなり過酷で、作業中に亡くなった人も多くいます。私たちにとって、学校に通うことは当たり前です。そのことに日々感謝したいと感じました。(山下)

 大久野島はとてもきれいな島でした。かわいいウサギがたくさんいて、毒ガスの島であったということを忘れてしまいそうなくらいでした。今まで、大久野島の毒ガスの歴史について詳しく知らなかったけれど、資料館の写真や当時の施設の遺構を見て、多くの人に伝えて行かなくてはならないと思いました。(森本)

 大久野島へ行ったのは初めてで、最初はウサギの方に関心がありました。実際に毒ガスに関連した施設跡や、毒ガスが入っていた容器、被害を伝えるパネルなど見て、毒ガスの恐ろしさが身近に迫ってくるように感じました。毒ガス兵器は今でも使われています。大久野島へ行ってその恐ろしさを知れば、誰もこうした兵器を使おうとはしないだろうと思いました。(新本)

 フェリーから降りるとかわいらしいウサギが出迎えてくれました。たくさんの笑顔であふれている大久野島。この場所で殺りく兵器が作られていたなんて誰が想像できるでしょう。資料館の展示や遺構など島の「過去」に目を向けた後であらためてウサギを見ると、その澄んだ目がさみしそうに見えました。加害の歴史から目をそらしていてはいつまでも平和な世の中は訪れないということを強く感じた取材でした。(正出)

 今回大久野島に行って、たくさんのことを学びました。例えば、原爆ドームのような、被害の象徴の戦争遺跡がある一方で、大久野島のように加害の歴史を持つ戦争遺跡もあるということです。これからは、一つのものをさまざまな角度から見つめることができるよう意識したいです。また、学校の校外学習でも大久野島に行く予定なので、今回の経験を生かし、より深い学習ができたらいいなと思っています。春休み最後の貴重な経験になりました。(鬼頭)

 僕は、戦時中に大久野島で働いていた岡田黎子さんの話を基に、今との生活の違いについて書きました。一日の生活の中心は、今が学校であるのに対して戦時中は学徒動員作業が占めていました。今の生活と全く違う部分、それは岡田さんが言っていた「感情が抹殺されていた」というところです。岡田さんの話を聞いて、平和とは感情を自由に表現できることであると思いました。(川岸言統)

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