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ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第3号) 戦時の「制服」もんぺ

 太平洋戦争中、女性の衣料の定番はもんぺでした。戦時体制の中、国の統制、推奨(すいしょう)によって広がりました。物資を節約し、国民の心を束ねる狙いもあったとみられます。

 1942(昭和17)年ごろから、女子学生はそれまでの制服のスカートをもんぺにはき替えて登校したそうです。学徒動員の勤労奉仕(ほうし)や建物疎開(そかい)作業にも、もんぺ姿で従事しました。

 機能的で動きやすかったのは確かでしょう。でもそれは、自由を制限された戦時の「制服」でした。45(昭和20)年に原爆が投下されたときも、女子学生をはじめ、多くの女性はもんぺをはいていたといいます。

 今回、広島ファッション専門学校(広島市中区)の協力を得て、私たちで実際にもんぺを作ってみました。今の私たちと同じ年頃(としごろ)だった当時の女子学生の思いを想像し、もんぺがスタンダードだった時代の背景を探りました。

紙面イメージはこちら
おしゃれの自由なかった

私は好きな服を選び

好きな時に着る

いかに便利さの中で

生活しているのか

 もんぺはゆったりして動きやすいな、と感じました。でも戦時は、普段着(ふだんぎ)も外出着も労働着も、全(すべ)て同じもんぺが当たり前だったといいます。上はセーラー服や、目立たぬ色に染めたシャツという格好で、洗濯(せんたく)も週に1回が普通(ふつう)だったそうです。

 ほとんどの物資が配給(はいきゅう)制だった当時の女子学生たちには、おしゃれを楽しむ余裕(よゆう)などありませんでした。今、私は自分で好きな服を選び、好きな時に着ることができます。同じ服を一日中、さらに1週間着続けるなんて想像もできません。

 作るのも、ミシンを使わず全て手縫(てぬ)いすることに驚(おどろ)きました。今回はみんなで協力して仕上げましたが、当時は多くの場合、母親が1人で作っていたと聞きました。

 私たちがいかに便利さの中で生活しているのか気付かされました。今の幸せに感謝し、何もかも人や機械任せではなく、自分でできることは自分自身で解決していける人になりたいです。(中3芳本菜子)

「着ないと異端視された」 大学非常勤講師(服飾史) 津島由里子さん

 戦時中どうしてもんぺを着なくてはいけなかったのでしょうか。安田女子大などで非常勤講師を務める津島由里子さん(67)=服飾史(ふくしょくし)=に聞きました。

 もんぺは、野良着(のらぎ)を原形に、戦時の女性の「制服」として奨励されたそうです。

 明治、大正時代は、女性の服は着物やはかまが中心でした。それが、戦時色の深まりとともに質素(しっそ)な服に移行します。1940年の大日本帝国(ていこく)国民服令で男子の標準服「国民服」が登場。42年、厚生省公示で女子の非常時用活動着の一つとして「上衣(うわぎ)ともんぺ」の着用が促(うなが)され、広がりました。「文字通りのお仕着(しき)せだった」と津島さんは言います。

 男子の国民服はウールや木綿製。足にはゲートルを巻きました。女性たちは、戦時の物資の乏(とぼ)しい中、木綿などの着物をほどいてもんぺを作りました。上着も、ささやかなおしゃれとしてたもとを残したまま袖にしていた人もいたそうですが、やがては切り落として筒袖(つつそで)にしなければなりませんでした。

 もんぺは戦意(せんい)高揚(こうよう)の「決戦(けっせん)衣服」とも呼ばれました。内心は「かっこ悪い」「着たくない」という思いがあっても、着ていないと周囲から異端(いたん)の目で見られる―そんな時代の風潮(ふうちょう)もあったそうです。自由が制限された時代の制服でした。(高1鼻岡舞子、小6目黒美貴)

「あの日 名前の手がかり」 広島ファッション専門学校校長 戸谷清子さん

 広島ファッション専門学校の戸谷清子校長(85)は女学校時代のもんぺの記憶(きおく)を次のように話します。

 1942年に広島県立広島第二高等女学校に入学したときは、プリーツスカートの制服でした。戦時色の深まりとともに、スカートはもんぺに替わりました。4年生になった45年、授業は週1日だけ。日曜を除くあとの5日は学徒動員で、今の広島市南区皆実町にあった広島地方専売局に通い、たばこ製造の作業に携(たずさ)わりました。

 国防色(こくぼうしょく)といわれたからし色の支給の上着に、下は母が作ってくれたもんぺでした。

 その年の8月6日。作業が始まって少したった午前8時15分、原爆が落とされました。ピカッと視界が一瞬真っ白になり、窓の外に燃え盛る炎のような色が見えました。工場が爆発した? と思うと同時に強烈な爆風。私の体は機械の間に吹き飛ばされました。手にけがはしたものの、幸い軽傷でした。

 雑魚場町(現中区国泰寺町)で建物疎開(そかい)作業をしていた2年生はみんなひどいやけどを負い、多くが亡くなりました。腫(は)れ上がった顔、ただれた皮膚(ひふ)…。救護(きゅうご)を手伝いましたが、誰(だれ)が誰なのか見分けがつきません。

 役立ったのが、もんぺでした。柄(がら)や、腰の名札の住所と名前が判断材料になりました。まさかこんな形でもんぺが…。今考えても涙が出る、悲しい思い出です。(聞き手・中3溝上希)

(2015年2月12日朝刊掲載)

 戸谷校長にもんぺの型紙を作る製図方法を、書いてもらいました。大きさは標準サイズです。皆さんもぜひ、作ってみてください。

もんぺの製図方法はこちら

<ピース・シーズとは>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、小学6年から高校3年までの44人が、自らテーマを考え、取材し、執筆していきます。

【編集後記】
 もんぺ作りは、戸谷先生のていねいなご指導のおかげで、楽しく作ることが出来ました。一方で、何ごとも制限された当時のことを思い、一針一針の重みを感じながら、心を込めて少しずつ縫い上げました。(目黒)

 当時は、おしゃれができないし、木綿のもんぺではもし冬だったら寒いはず。大変だったろうなと思いました(谷)

 今回、ピース・シーズの取材にあたり、戸谷先生には本当にお世話になりました。もんぺ作りはミシンではなく全て手縫いで、当時の人がどれだけ苦労したか身にしみるものでした。戸谷先生は私たちジュニアライターに被爆体験を語ってくださった際、「いつまでもあの出来事を忘れてほしくない。被爆者がだんだんと亡くなり、忘れ去られていく前に、ちゃんと若い世代へ語り継がなければならない」とおっしゃっていました。私にとってこの言葉はとても印象的でした。被爆者の心からのメッセージなのだと思います。これからの活動でもこの言葉を胸に刻んで頑張っていきます。(溝上)

 今まで戦時中のファッションのお話を聞いたことがありませんでした。今回、実際に手縫いで一枚の布からもんぺを作る作業を通じて、何もかも便利さを追求せず、少しは遠回りをしてでも自分自身で成し遂げることの大切さを学びました。(芳本)

 戸谷先生から、上着のセーラー服の白いリボンは目立つから必ず外すことになっていた、と聞きました。セーラー服はリボンでかわいさが増すのに、それすら禁止だなんて、戦時中は、そんな小さなおしゃれも、自分の個性も主張できない、不自由な時代だったのだな、自分なら絶対嫌だと思いました。(佐伯)

 なかなか上手に針が進まなくて大変でした。洗濯していない同じ服を着続けるなんて、今では考えられません。おしゃれがしたいと思う余裕もない、危険と隣り合わせの日々を送っていた話を聞き、今の暮らしのありがたさをあらためて感じました。(鼻岡舞)

 初めてミシンを使わずに作業をしてみて、手作業だけで服を作ることがどれほど大変なことなのか分かりました。まったく物資のない中で、娘のためにお母さんが心を込めてもんぺを縫っていたんだろうなと思いました。(上原)

 私はこれまでの取材で、衣類をはじめとして被爆時の風俗を気にかけたことはあまりありませんでした。でも今回、もんぺをテーマに取材したり作業したりして、今後は戦時中の服装を意識していきたいと思うようになりました。それから、当時の男子の制服を着てみたかったです。(岩田)

 私は裁縫が苦手ですが、とてもいい経験になりました。当時の苦労を知るとともに、手縫いは手間がかかるけれどその分、思いがこもっていて、ミシンや既製品では決してまねできない、味のあるものができるという魅力も感じました。(平田智)

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