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ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第30号) 食から見る戦争

強制された質素な暮らし

 日本が戦争を続けるにつれ、国内では食糧(しょくりょう)不足が深刻になりました。国は1938年に国家総動員法を制定してからは軍事を最優先。「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」というスローガンを強調し、「銃後(じゅうご)」でも戦場と同じような気持ちで質素に暮らすよう国民に強制しました。

 ジュニアライターは、戦時中に台所に立った90歳前後の女性3人に、当時の食事を教えてもらいました。すいとん、ゆでたトウモロコシ、サツマイモ入りのご飯―。いずれも、米をできるだけ使わずおなかを満たせるよう、作られた食事です。

 今と違って自由に好きな物を食べられる時代ではありません。楽しむよりは生きるための食事でした。当時の食事を一緒に振り返ることで、戦中戦後の生活の厳しさを知りました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの44人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

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強制された質素な暮らし

食糧難時代 配給も不十分

 戦時中、国内で食糧が不足した背景にはいくつかの原因があります。軍需(ぐんじゅ)用に必要な食糧が急増した▽農家の男性が召集、動員されて人手不足になり、農作物の生産量が激減した▽海外からの輸入が止まった―ことなどです。食糧を自給するしかなく、都市部を中心に深刻化しました。

 こうした状況で配給制が始まりました。国は米、小麦粉、砂糖などの流通量を制限。各世帯は配られた切符(きっぷ)に定められた量だけ購入できました。しかし量は限られ、回数も不十分でした。そのため、配給以外で売り買いする「闇(やみ)取引」が生まれました。

 国民は代用(だいよう)食として、栽培しやすいサツマイモを空き地で育てるようになりました。食糧難は戦争が終わっても1950年ごろまで続きました。(高2松尾敢太郎)

家族全員で分け合った

広島市西区の加藤さん

 16歳で被爆した加藤八千代さん(87)=広島市西区=は戦時中、すいとんを夕食に食べていました。貴重な米の代わりに小麦粉を使った料理です。

 煮干(にぼ)しで取っただし汁に薄く切った大根とニンジン、白菜を入れます。煮立ったら、強力粉に水を加えて練った団子を入れ、団子が浮かんでくれば出来上がりです。だしの香りが広がり、優しい味がしました。当時は庭で取れた野菜を具にしました。電灯にカバーをかける灯火管制で暗い時もありましたが、家族がそろう夕食は「楽しく幸せだった」と懐(なつ)かしみます。

 広島市立第一高等女学校(現舟入高)の専攻科生だった「あの日」は、爆心地から約2・5キロの己斐駅(現西広島駅、西区)近くで被爆。突然吹き飛ばされ、気を失いました。学徒動員先の工場が休みだったため、友達と宮島に行く途中でした。大きなけがはなく、夜まで歩いて向洋中町(現南区)の自宅へ。父は「生きてたのか」と驚(おどろ)いたそうです。

 「みんなで協力しないと生きていけなかった」。少ない食べ物を、家族で分け合った時代でした。今回一緒に作ったすいとんは、ほっとするような味で、加藤さんの青春の思い出になっていると感じました。(高2福嶋華奈、高1坪木茉里佳)

開拓団の3年間 厳しい冬しのぐ

旧満州で過ごした石橋さん

 石橋年子さん(92)=広島県北広島町=は、終戦までの約3年間を旧満州(中国東北部)で過ごしました。広島県新庄村(現北広島町)の分村「芭連村(ばれんそん)」へ開拓(かいたく)団として入ったためです。畑一面に育てたトウモロコシを食べて暮らしました。

 やせた土地でも成長するのが特徴(とくちょう)です。収穫(しゅうかく)後は家を暖める「オンドル」のかまどでゆでたり焼いたりしました。気温が氷点下40度まで下がる冬に備え、粒(つぶ)だけを乾燥(かんそう)させて保存。スイカやトマトも栽培(さいばい)し、「毎日の生活に困ることはなかった」と言います。

 終戦後の引き揚(あ)げは過酷(かこく)でした。屋根も壁もない貨車に乗せられた1日半の間、振り落とされないよう、生まれたばかりの長女を必死に抱(だ)いていました。途中、汽車が止まったときにどこかの畑から夫が取ってきたニンジンが、母子の命をつなげました。

 さらに、船と鉄道を乗り継ぎ広島へ。途中、死んで放っておかれた赤ん坊を見つけました。石橋さんはいたたまれず、赤ん坊の顔にハンカチを掛けました。「本当に大変な時代だった。好きな物を買って食べられる今はありがたい」。目にうっすら涙を浮かべていました。(高2松尾敢太郎、中3上岡弘実)

味わう余裕なく満たしたおなか

呉海軍経理部に勤めた山本さん

 当時、呉海軍経理部に勤めていた山本弘子さん(91)=呉市=は、食糧事情がより厳しくなった戦後に食べたサツマイモ入りのご飯が記憶に残っています。「味わう余裕(よゆう)はなく、おなかがふくれればよかった」と話します。

 両親が広島県安浦町(現呉市)に農地を持っていたので、戦時中は米には困りませんでした。しかし、小作人が耕す「不在地主」だったため、戦後は米軍に命じられ農地を手放しました。そのため米が不足し、大きさ3~5センチに切ったイモと交ぜて炊きました。

 イモは戦時中から自宅前の道端(みちばた)で育てていました。「ぜいたくは敵だ」といわれた時代。茎も海水で薄めたしょうゆで味付けし、煮て食べました。空襲に備え、短時間で食べられるだけ食べる癖は体に染み込んでいます。老いた今も「もったいない」と、三度の食事を残すことはないそうです。(中2鼻岡寛将)

芭連村と旧満州(中国東北部)への移民
 国の政策により、広島県新庄村(現北広島町)は満州に第2の村「分村」をつくる計画を立てた。新庄村から半数の世帯(220戸)を移し、農家1戸当たりの農地を広げることで、食糧の生産を増やし、満州を発展させることが目的だった。「大朝町史」によると、1940年、現地に「芭連村」を建設。以後5回に分かれて入植し、45年4月には計127戸453人が住んだ。「広島県史」によると、県内全体から満州への移民は約1万1千人。終戦後の引き揚げでは混乱の中、保護者や家族と離(はな)れ、中国に残される人々が相次いだ。

(2016年3月24日朝刊掲載)

【編集後記】

 僕たちにも思い出の食べ物があります。戦争を経験した人にとって、それは必ずしも好物ではなく、生きるためにすがるしかなかったものでした。僕たちは、好きなものを好きなだけ食べることができて、余ればすぐに捨ててしまいます。戦争の記憶とともに継承するべきなのは、戦時中の人々が持っていた「もったいない」という価値観ではないかと思った取材でした。(松尾)

 加藤さんが女学生の時に持っていた弁当は、今と比べるととても小さく、私たちには、おなか一杯にならないような大きさでした。卵は貴重品なので、大根など季節の野菜の煮物がおかずでした。今回の取材で食事のありがたさを感じることができました。今までは好き嫌いをしたり、食べきれず残したりすることがありましたが、現在、不自由なく食事ができるのを当たり前だと思わず、過ごそうと決めました。(福嶋)

 「食から見た戦争」というテーマで取材しました。全員が主食について話されたことから、当時はとにかくお腹を満たすのが最重要だったことが伝わりました。取材する中で案外、自分の身近な人にも、当時の暮らしを覚えている人がいる、と知ることができて良かったです。今回は食事に重点を置いて取材しましたが、生活全般についても聞きたいです。(上岡)

 当時、本当は中国人の土地だった場所に日本人が入り、家や畑を作って、村を造りました。それに対して不満を持っていたのか、一人の中国人が畑仕事をしている石橋さんたちに石を投げてきたそうです。望む、望まないにかかわらず、お互いが対立する立場にいることを感じる時でした。そういう時代を生きてきた石橋さんの「今の時代は、ありがたい世の中。もったいないとたくさん感じることがある」という言葉が、強く印象に残りました。(植田)

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