×

ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第29号) フクシマ3高校の新聞

 3月11日で東日本大震災(しんさい)の発生から5年を迎(むか)えます。福島県では、東京電力福島第1原発事故も起き、地震(じしん)、津波(つなみ)、放射線、そして風評という四つの被害(ひがい)に今も苦しむ人がたくさんいます。

 ジュニアライターと同世代である福島の高校生は、この5年をどのように捉(とら)えているのでしょうか。太平洋沿岸の「浜通(はまどお)り」にある相馬(そうま)高(相馬市)と、阿武隈(あぶくま)高地を挟んで県中央部の「中通(なかどお)り」にある郡山東高(郡山市)、安積(あさか)高(同)が2月末から今月初めにかけて発行した学校新聞では、震災特集が組まれました。3校の新聞制作者が課題としたのは「風化」。仮設住宅に暮らす人を取材したり、生徒へのアンケート結果から関心の低下を浮(う)き彫(ぼ)りにしたりしていました。ただ相馬高では、今も仮設住宅から通学する生徒がいるため話題にしにくいという声も聞きました。

 現状を知り、忘れないために、私たちに何ができるか。これからも考えていきます。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの44人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

紙面イメージはこちら

震災の悲劇 風化させない

「復興」や「傷痕」3ページ特集 郡山東高

 郡山東高(郡山市)の新聞部は、4ページの新聞を年に3回発行しています。今回は、震災5年を特集するため6ページに増やしました。取材を進めるうちに、記事にしたい内容が増えたため、レイアウトも組(く)み替(か)えて、3ページを特集にあてました。副部長の2年市川愛美(あみ)さん(17)は「5年は一区切り。みんなにちゃんと考え直してほしかった」と狙(ねら)いを話します。

 震災で双葉(ふたば)高から郡山東高に転校した卒業生や同市内の仮設住宅を訪れて「富岡(とみおか)町臨時災害FM」のパーソナリティーを取材。津波(つなみ)の傷痕(きずあと)が残る宮城県石巻市、女川町をリポートした記事も掲載(けいさい)しています。

 また、全校生徒へのアンケート結果も載(の)せました。福島県の復興が「進んでいる」と答えた生徒は約5割。副部長の2年土屋輝美(てるみ)さん(17)は、「建物などの復興は進んでいるが、今も避難(ひなん)区域があり、風評に過敏(かびん)に反応する人もいるからではないか」と分析(ぶんせき)します。

 市川さんは、「原爆や戦争の記憶(きおく)が70年間伝えられているように、これからも震災の状況(じょうきょう)を伝えたい」と意気込(いきご)みます。(中3中川碧)

無関心 食い止める 安積高

 「震災について問われた時に答えられないような、無関心で無知な中通(なかどお)りの現状を食い止めたい」。安積高(郡山市)の新聞委員長の2年山田耕太郎(こうたろう)さん(17)は、そんな思いで委員会に入りました。これまで委員会では、いわき明星(めいせい)大(いわき市)の校舎で授業する富岡(とみおか)高(富岡町)や、今も宿泊(しゅくはく)が禁止されている南相馬市小高区を取材。阪神大震災(はんしんだいしんさい)の被災地(ひさいち)・神戸もリポートしました。山田さんは「知られていない情報を届けたいから、なるべく浜通(はまどお)りや県外に行っている」と力強く語ります。

 今回は、1、2年生へのアンケート結果を掲載(けいさい)。福島に住む不安がない人が8割近くいました。同委員会は「放射線の影響(えいきょう)を恐れる人もいるが、中通りは震災前の日常生活に戻(もど)っているから」と分析します。

 「震災の風化を防がないといけないけど、フクシマの悪いイメージも払拭(ふっしょく)したい」。ジレンマを抱(かか)えながらも、これからも震災について取材して掲載していきます。(高1溝上希)

同級生とは語れず 相馬高

 浜通(はまどお)りにある相馬高(相馬市)の出版局1年和田山きらりさん(16)は、「震災を忘れないようにしたいから」と今回、特集した思いを説明します。ただ、今も仮設住宅に住んでいる同級生もおり、「話題にするのが申し訳ない」と、震災について友達と話すことはないそうです。

 同市内にある仮設住宅を取材した和田山さん。「実際に津波(つなみ)の被害(ひがい)を受けたり避難(ひなん)したりしている人以外は関心がない。現地に行かなきゃ見えないから」と狙(ねら)いを語っていました。

 原発事故により、福島の漁業は試験操業のみです。「次は相馬漁港に行きたい」。今どうなっているのか、いつになったら福島の魚を自由に食べられるようになるのかなどを取材したいそうです。(高1溝上希)

8校 今も避難余儀なく

 福島県では、福島第1原発の避難(ひなん)区域内にある高校は、今も避難を余儀なくされています。双葉(ふたば)、相馬両地区の八つの高校です。

 8校は、「中通り」や同市内の避難区域外にある他の高校で、仮設校舎を建てるなどして授業を続けています。県南部にある大学の空き教室を借りている高校もあります。しかし、震災前より生徒の数は減りました。中でも放射線量の高い双葉地区の5校は、元の校舎での授業再開が難しいとされ、2015年度からの入学者募集(ぼしゅう)を停止しました。今は2、3年生しかおらず、17年春から「休校」になります。

 一方、5校の代わりとして、ふたば未来学園高が、双葉地区の広野町で15年4月に開校しました。同地区出身の子どもたちを多く受け入れています。(中2藤井志穂)

相馬の仮設住宅取材

住民バラバラ 古里どこへ

 飯舘(いいたて)村は全域が避難(ひなん)区域に指定されていて、住民は避難生活を送っています。うち、相馬市北部の仮設住宅では約130世帯260人が生活しています。別の約30世帯は相馬市内などに家を建てて引(ひ)っ越(こ)しました。しかし、転居先で「飯舘の人は、東京電力からお金をもらって来ている」と、無視されることもあるそうです。自治会長の庄司勝(しょうじ・すぐる)さん(74)は「お金なんか要らない。村を元の状態に戻(もど)してほしい」と訴(うった)えます。

 村役場は6月に飯舘に戻る予定です。地震(じしん)で壊(こわ)れた自宅を解体した佐藤襄二(じょうじ)さん(78)も5月から村に家を建て始めます。しかし、村に帰れるようになっても息子(48)は新居に引っ越すが、佐藤さんは戻らないそうです。5年かけてここで築き上げた絆(きずな)を失いたくないのです。

 村には20の行政区がありますが、佐藤さんは「1行政区で3~5人くらいしか帰らないかもしれない」と言います。村に戻っても野菜作りも、畜産(ちくさん)も簡単にできないそうです。山の除染(じょせん)もされません。

 5年という月日は、村をバラバラにしてしまっているのです。(中3中川碧)

私たちができること

 私たちができることを考えてみました。

正しい現実を知る

 福島県内のどの地域が放射能汚染(おせん)されているのか、米や野菜がどのように検査されているのかなどを正確に知る必要があります。

現状を伝える

 自分たちで見たり聞いたりして知ったことを広めます。福島県の高校が作った新聞も会員制交流サイト(SNS)などで拡散したいです。

広島・福島の人が意見交換する

 ヒロシマと原発事故に苦しむフクシマ。いずれも放射線被害を受けています。共感・共有できるものがあるはずです。(高2岩田壮)

(2016年3月10日朝刊掲載)

【編集後記】

 「福島産のものは汚染されている気がして買えない」という意見があると聞き、悲しくなりました。不安な気持ちも分かりますが、商品が他の地域よりも厳しい検査を通って出荷されている事を知らずに「安全じゃない」と言うのは、違います。風評被害によって捨てられた食べ物や、農家の方々を思うと、胸が痛みました。(藤井)

 私は今回の取材で福島に行きました。避難区域に指定されている地域にも行きましたが、除染ではがされた土や枝が入った黒い袋が山積みになっているところや、柵で人が入れないようになっているところがあり印象に残りました。まだまだ避難の解除にはたくさんの課題があると実感しました。(中川)

 福島の人々はだいたい皆同じ考えを持っていると思い込んでいました。しかし、今回の取材では同じ県でも山側と海側で原発に対する意見に温度差があると気付きました。他の県や国でも同様に、地理的な条件などで一つの問題に対する人々の考えがガラリと変わるので、ちゃんと考慮できるようにしておきたいです(岩田)

 2日間かけて福島へ取材に行きました。1日目は、郡山東高と安積高に行きました。私がこの1日目で感じたことは、「ヒロシマとフクシマの関連性」です。放射能に対する情報量の違いこそありますが、放射能を浴びた人に対する偏見などといった心の部分は今もまだ変わっていないのだと感じました。フクシマナンバーで高速道路を走ると前後の車との距離が異常に広かった話、東京の新しい職場で出身を聞かれ、福島だと答えると「放射能の臭いがする」と上司に言われた話、当時、年頃だった女の子は自分は結婚ができるのかと心配していた話。70年前、広島に原爆が落とされ、引き起こった原爆差別の話と似たものを感じました。安積高校新聞委員長の山田さんが「インフラなどといったハードは部分は復興をしたが、心の部分、つまりソフトな部分はまだまだ復興しきれてない」と指摘していたことに、納得しました。

 2日目は、仮設住宅に行ったり相馬高出版局の和田山さんにインタビューをしました。実際、浜通りに行って分かったことがたくさんありました。最も感じたのは、「5年前の傷痕がまだまだ残っている」ということです。 相馬高出版局の顧問の先生が昼ご飯で地元の蕎麦屋さんに連れていってくださった時、「これしかできない丼」というメニューがありました。震災前は地元の魚を使ってどんぶりをたくさん出していたのでしょう。今、福島の海で魚を通常通り捕ることはできず、唯一とれるタコやしらすを使ったどんぶりが「これしかできない丼」でした。地元の蕎麦屋さんという場所でも、震災の傷痕があり、すごく衝撃的で、不意をつかれた気持ちでした。(溝上)

年別アーカイブ