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ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第28号) 内戦から逃れて

 海外では、国の中で起きた戦禍(せんか)や混乱から、自分の命を守ろうと国外に避難(ひなん)する人々がいます。最近では、シリアから欧州などに大勢の人が逃(に)げ、世界の関心を集めています。母国の治安が悪く政府も安定していないので、外国で生きる道を選ぶしかない状況(じょうきょう)です。

 日本に逃(のが)れてくる人もいます。「難民」として日本に滞在できるよう政府に申請した外国人は2015年、7586人(速報値)と5年続けて過去最多を更新(こうしん)しました。一方、認められた人は前年より16人多いものの27人。日本は受け入れに「消極的」と言わざるを得ません。

 広島県内にも、内戦が起きたため母国を離れて暮らす人がいます。今回ジュニアライターはアフガニスタンとカンボジアから来た2人に会い、戦いの恐(おそ)ろしさや今までの苦難を聞きました。同じ人間同士、助け合うため、何ができるかを考えました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校2年までの44人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

紙面イメージはこちら

祖国を離れ日本でも苦難

同じ人間。なぜこんな目に

アフガニスタンから クイ・アーマッド・ハレットさん(35)

 「武器は家族の日常と母国を壊(こわ)した。世界からなくしたい」。東広島市に住み、貿易会社に勤めるアフガニスタン人のクイ・アーマッド・ハレットさん(35)は強く願っています。内戦で故郷を離れ、18年前、命からがら日本に逃れて来ました。平和の大切さともろさを知っています。

 アフガニスタンでムジャヒディン(イスラム戦士)による内戦が激しくなったのは10歳の頃(ころ)。16歳だった1997年、古里マザリシャリフから首都カブールに移りました。イスラム武装集団タリバンが近づいたためです。

 カブールもライフラインが止まり、ラジオもテレビも放送禁止。数カ月後に隣国(りんごく)パキスタン北部のペシャワルへ向かいました。そこの地元警察は理由もなく人を捕(つか)まえて金を要求し、タリバン兵士も潜伏(せんぷく)しているという状況。「もっと遠くの国に逃げよう」と決めました。

 98年、ブローカーの手を借り、単身、タイを経由して東京の親戚(しんせき)を訪ね、救いを求めました。

 しかし、親身と感じられないこともある入国管理局の対応など、生活の中でしばしば、日本人に自分たちの気持ちが分かってもらえない、と思うこともありました。「同じ人間なのに、なぜ私たちはこんな目に遭(あ)うのか」。母に国際電話して泣いたこともあります。

 それでも日本語教室のボランティアに仕事の紹介(しょうかい)を受け、自立の道を歩みます。各地を転々とし、仕事を変えながらも、必死に働きました。2002年ごろ永住権を取得。08年には母国から妻を迎え、12年に東広島市へ引っ越しました。今は2児の父です。

 勉強や趣味を諦(あきら)めて働き続けただけに、「自分の未来をつくるため教育だけは受けたい」との思いが強くあります。海外にあるような支援を望みます。

 日本での生活の方が長くなった今、「強国に振(ふ)り回(まわ)され、平和の実現が難しい母国に戻(もど)る気持ちはない」と言います。「武器を持つ人が力を握(にぎ)れば、言葉一つで人が殺され、戦争が起きる。日本もいつ幸せな生活が崩(くず)れるか分からない。武器のない世界の実現を」と語ります。(谷口信乃、17歳、高矢麗瑚、17歳、芳本菜子、16歳)

ハレットさん
 アフガニスタン内戦で1997年、家族とともにパキスタンに避難。その後、単身で、タイを経て98年に日本へ。2012年から東広島市在住。

アフガニスタン内戦
 1979年の旧ソ連の軍事侵攻に、米国などの、支援を受けた各派が対抗。89年にソ連軍が撤退した後も、「ムジャヒディン(イスラム戦士)」同士の主導権争いが続き、国内は混乱を極めた。96年にイスラム武装集団タリバンが首都を制圧し、政権を樹立した。タリバンが保護していた国際テロ組織アルカイダが2001年に米中枢(ちゅうすう)同時テロを起こしたのを機に、米軍などの軍事侵攻を受けた。タリバン政権は崩壊したが、今も米軍のアフガニスタン駐留(ちゅうりゅう)は続いている。

爆弾が、前の人を直撃した

カンボジアから 張富裕子さん(48)

 東広島市のカンボジア・ベトナム料理店「アプサラス」はことし1月、開店20周年を迎(むか)えました。店長の張富(はりとみ)裕子(カンボジア名・葉圓圓(イエップイエンイエン))さん(48)は29年前、カンボジアの内戦を逃れて来日しました。「お客さんの笑顔が日本での私を支えてくれた」と話します。

 首都プノンペンで暮らしていた1975年、ポル・ポト派が政権を握って生活が一変しました。「3日間だけ」と言われてそのまま農村に強制移住。小学生でしたが、親元から離(はな)され、政権崩壊(ほうかい)の79年まで、早朝から日暮れまで農作業をさせられました。食事は1日2回。食料を盗(ぬす)んだり仕事を怠(なま)けたりすると殺されます。「毎日恐ろしかった」

 解放時は、重労働と栄養不足でつえがないと歩けませんでした。爆撃(ばくげき)の中を逃げる途中、爆弾が目の前の人を直撃(ちょくげき)。肉片が飛び散りました。パニックに陥(おちい)り、親に会うまで震(ふる)えが止まりませんでした。

 その後、ベトナムの難民キャンプを経て87年、親戚を頼(たよ)って来日。広島市の鉄工所に勤めて資金を蓄え、料理を通してカンボジアを知ってもらおうと、9年後に店を始めました。

 年金、医療費(いりょうひ)、日本国籍(こくせき)の取得…。外国人にハードルの高い日本の制度を痛感してきました。そんなときも、料理を「おいしい」と喜ぶお客さんの笑顔が励(はげ)みになりました。「強い心を持ち、一日一日に感謝して生きたい」。日本で生涯(しょうがい)を全うする覚悟を決めています。(山下未来、17歳、川岸言統、14歳、岡田日菜子、14歳)

張富さん
 ポル・ポト派が政権を握った1975年、農村部へ強制移住させられ、強制労働。79年の解放後、ベトナムの難民キャンプに移り、87年、日本へ。96年、東広島市で開店。

カンボジア内戦
 ロン・ノルら親米派が1970年にクーデターでクメール共和国を樹立後、極端(きょくたん)な共産主義思想を掲(かか)げるポル・ポト派との間で内戦が起きた。75年、ポル・ポト派が政権を握ると、知識人や政治犯らを処刑(しょけい)。都市住民を地方に強制移住・労働させた。ベトナム軍侵攻(しんこう)で政権が崩壊(ほうかい)した79年までの間に、200万人以上が虐殺(ぎゃくさつ)や飢餓(きが)で亡くなったとされる。その後も4派による対立が続き、91年にパリで和平協定が結ばれた。

衛生状態の改善が最重要

難民キャンプで活動支援 NPO法人の渡部朋子理事長

 広島市からパキスタンのアフガニスタン難民キャンプを訪れ、現地に診療所(しんりょうしょ)を建てる支援(しえん)活動をした人がいます。NPO法人ANT―Hiroshima(中区)の渡部朋子理事長(62)です。当時のキャンプの状況を聞きました。(中2岡田日菜子)

 パキスタン北部・ペシャワル近郊(きんこう)のキャンプには、2002年以来、計7回訪れました。当初、子どもは教育を受けるのではなく、環境(かんきょう)の悪い中、じゅうたんを織るなど重労働を強いられていました。女子は10代前半で結婚し出産。栄養不足で母乳は出ません。粉ミルクに使う水さえ干ばつで汚(よご)れ、乳幼児は下痢(げり)をしていました。

 衛生(えいせい)状態の改善が最も必要でした。診療所は安全な出産や衛生教育に欠かせません。原爆で破壊された広島も世界の人々の助けで復興できました。被爆2世の私も何か支援できないか考え、資金を募(つの)り建設を目指しました。

 タリバン掃討(そうとう)作戦を挟(はさ)み工事が止まった時期もありましたが、2011年に完成。現在は難民や住民たちが委員会をつくって運営しています。毎月約千人に利用され、今も月1回運営状況のリポートが私に届いています。

<ポイントは>

外国人受け入れ問題 下中弁護士と考えた

 内戦から逃れて来る人たちに対して、私たち市民や政府は何をすべきなのでしょうか。外国人の受け入れ問題に詳(くわ)しい広島弁護士会の下中奈美弁護士(59)=写真=とともに改善点などを考え、ポイントをまとめました。(谷口信乃、17歳)

市民レベルで関心を高める

 市民の関心が高まれば、受け入れに消極的な政府の態度も変わるはず。島国の日本では外国の悪い文化が入るのではと心配する人もいます。しかし、もっと交流し、良い所は取り入れ、悪い所は議論し改めればいいと思います。

在留資格の基準を和らげる

 政府に認められず、絶望して帰る人もいます。帰国すれば迫害(はくがい)を受ける恐れのある人たちです。一方で10年以上、認められないまま滞在(たいざい)している人もいます。外国人にとって在留資格を得ることは、いわば「人間」として認められること。日本で働いて貢献(こうけん)してもらう方が互(たが)いにプラスになるはず。

国際貢献は足元から

 難民もなかなか受け入れず、「鎖国(さこく)」状態の日本こそ、内戦から逃れる人々を迫害している状況。人間らしく生きる権利を侵害(しんがい)することにつながります。内戦で困っている国にお金を渡す援助も大事ですが、今日本にいて生活にも困っている外国人をもっと助けるべきです。

(2016年2月25日朝刊掲載)

【編集後記】

 今まで難民問題について無関心でいたことが、恥ずかしくなりました。命からがら日本に逃げてきた人もいます。そういった人たちのためにも、日本国民は「我関せず」という姿勢をとるのではなく、在留資格を必要とする人には、認められるよう訴えかけていく必要があるのではないかと感じました。(谷口)

 張富さんは笑顔が素敵で、とてもパワフルな方でした。秘訣は「深く考えすぎないこと」だそうです。そんな張富さんの手作り料理を食べることができました。私は昨年、カンボジアを訪れたのですが、どれも、本場のものよりも美味しく感じられました。特に、ベトナムの「お好み焼き」が絶品でした。口の中に運ぶと、カリカリの皮と、ひき肉やモヤシなどの具が見事に協演します。皆さんもぜひ行って、食べてみてください。(山下)

 私はハレットさんの壮絶な過去を聞くまで、「日本は難民を受け入れなくてもいい」と思っていました。しかし「人は助け合うために存在している!」と繰り返すハレットさんの言葉に、心が動かされました。心の傷の受け方は違っても、突然幸せな日常が奪われたという面では、被爆者の体験と重なる面もありました。これからもっと世界の問題に目を向けていきたいです。(芳本)

 私が思っていた以上に、戦争や紛争のため他国に逃げる人たちは、厳しい状況におかれていることを知りました。今、日本で受け入れられている難民はごくわずかです。もし、日本で受け入れられても、差別などを受ける可能性もあります。多くの人が世界の現状と、助けを求める外国の人たちの声を知らなければならないと思いました。(岡田)

 張富さんの料理店「アプサラス」は、店内にアンコールワットの大きな絵が飾ってあります。話を聞くまでは、「過去に何があったのか」と思うぐらい良い雰囲気です。しかし、いったん話が始まると、今の僕たちには考えられない時代があったのだと知りました。聞かせてもらった体験は、風化しないよう、自分の友だちや次の世代に伝えていきます。(川岸)

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