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ジュニアライターがゆく

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第55号) 比治山で学ぶ平和

 広島市南区の比治山公園は昔から桜の名所として知られ、憩(いこ)いの場でした。現在は美術館や図書館もあって市民や観光客に親しまれています。そして原爆の影響(えいきょう)を調査してきた放射線影響研究所もあります。

 明治時代に陸軍墓地などが置かれ、原爆が投下された直後にはたくさんの人が避難(ひなん)してきました。爆心地から約2キロ。原爆の爪痕(つめあと)があちこち残り、広島の街を見渡(みわた)すことができます。広島市は比治山公園周辺を「平和の丘(おか)」として整備する計画を進めています。

 中国新聞ジュニアライターで春の比治山を歩き、戦争と平和を実感できる地図も作りました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学、高校生の25人が自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

紙面イメージはこちら

歩いて感じた戦争の深い悲しみ

①多聞院

原爆耐えた鐘楼 惨状語る

 比治山のふもとに立つ多聞院は、爆心地から1・75キロにあり、原爆が投下された1945年8月6日には臨時の県防空本部が設置されました。本堂や庫裏(くり)は大破しましたが、34年にできた鐘楼(しょうろう)は爆風に耐え、大切に保存されてきました。破れた屋根や折れたはりが、惨状(さんじょう)を伝えています。

 戦時中の物不足で仏具と一緒(いっしょ)に回収されたため、鐘(かね)は被爆した時にはありませんでした。しかし49年、当時の住職さんが爆心地の砂を混ぜた「平和の鐘」を設置。その表面には「NO MORE HIROSHIMAS」という文字が刻まれています。

 現在は副住職の亀尾(かめお)泰弘(たいこう)さん(35)が毎朝8時15分に鐘を鳴らしています。亀尾さんは「8月6日が近づくと、鐘をつくたびに不思議な感覚になる」と言います。当たり前の生活が一変し、突然(とつぜん)全てを奪(うば)われた「あの日」の朝を現実味を帯びて感じるそうです。

 私も鐘をつきました。音がおなかに響(ひび)き、心地よい余韻(よいん)が残りました。「一人でも多くの人に、8時15分を意識してもらえれば」と亀尾さん。多聞院の鐘の音は平和への願いを伝え続けます。(高3沖野加奈)

②比治山陸軍墓地

兵士の犠牲 風化させまい

 比治山陸軍墓地は1872年に陸軍の埋葬(まいそう)地として設置され、西南戦争(77年)以降の戦死者の遺骨を葬(ほうむ)っていました。墓石は1944年に整理されましたが、原爆投下や枕崎(まくらざき)台風の影響で、戦後しばらく散乱したままだったそうです。

 桜並木に囲まれた現在の墓地は、60年に有志によって再建されました。県別に整理された墓石が左右にずらりと並び、日清戦争や第1次世界大戦などで亡くなったフランス、ドイツ、中国人の墓や、さまざまな慰霊碑(いれいひ)もあります。

 今回初めて墓地を歩きました。一つ一つの墓石が、散っていった兵士の存在を示しています。風化させまいという強い意志のようなものも感じました。比治山には原爆を伝える史跡(しせき)がたくさんあります。陸軍墓地は原爆とは違(ちが)う視点から、戦争の悲しさを伝えています。(高1斉藤幸歩)

③放射線影響研究所

被爆者の健康調査続く

 放射線影響研究所(放影研)は、米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)が前身です。1947年に広島赤十字病院の中に開かれ、50年に比治山の上に今の建物が完成しました。広島市内の平地は水害が多く、ここが選ばれたそうです。75年に日米が共同で運営する研究機関になりました。

 かつては被爆した子どもや少女がいやがっていても検診(けんしん)し、被爆者の遺体を解剖(かいぼう)して「被爆者の調査はしても治療(ちりょう)はしない」という批判や反発があったと聞きます。放影研広報出版室長のジェフリー・ハートさん(58)は「研究機関なので治療が目的ではない。しかし、無理やり子どもが連れて来られたことなどを聞くと、ひどいと思うし、複雑な気持ちだ」と話します。

 58年以降は被爆者の死因や寿命(じゅみょう)の調査も始めました。そのデータを基に、医療(いりょう)などで使われる放射線被曝(ひばく)の基準が決まりました。ハートさんは「被爆者の協力で、放射線のさまざまな研究が発展した」と力を込めます。

 放影研は、被爆者の健康状態や被爆2世への影響がないかなどを調査しています。若い世代との交流にも力を入れ、出前講座や「フェイスブック」でも情報を発信しています。施設を見学し、放影研の歴史と現状がよく分かりました。(高3岩田央)

④広島市現代美術館

オノ・ヨーコさんの作品 衝撃

 比治山の広島市現代美術館は1989年に開館しました。各国の芸術家が制作した原爆や戦争、平和をテーマにした作品をたくさん収蔵しています。

 被爆50年に作られたオノ・ヨーコさんの「箱」は、血のにじむ小さな箱と「痛みから逃(に)げられない」と訴(うった)える詩が、被爆者の終わらない苦しみを表現しています。作品を眺(なが)めていると早くこの場を去りたいと思うとともに、実際に傷を負った人はずっとこの重みを抱(かか)えているんだ、と感じました。

 美術館の玄関(げんかん)の天井(てんじょう)は爆心地の方向に切れ目があるデザインで、柱の一部に被爆石が使われています。平和と向き合える美術館だと思います。(高2藤井志穂)

(2018年4月19日朝刊掲載)

【編集後記】
 今回の取材に参加して、比治山には、原爆に関連したものがたくさんあることが分かりました。広島市現代美術館や、多聞院など、いろんな視点から、見たり聞いたりしたことはとてもよい経験になりました。これからも、たくさんの視点から原爆を学ぶよう、努力したいと思います。(川岸)

 比治山を歩いて感じたことは「過去との共存」です。この丘には、お花見をしにたくさんの人が訪れ、楽しんでいました。しかし、70数年前の出来事を忘れず、今という時代を歩み続ける人々の姿があるように感じます。「過去との共存」。それは決して難しいことではありません。心に少しでも平和を願う気持ちがあればできることなんだ、と今回の取材で学びました。(斉藤)

 比治山は、戦争の跡が深く残された場所でした。一方で、現代美術館の作品や多聞院の鐘は、平和への願いを発信しています。時代とともに変わっていく部分と変わらない部分をあわせ持った場所です。どちらにも共通する「平和」への訴えは、力強いものでした。身近な山ですが、まだまだ知らない事がたくさんあります。広島について、もっと広く深く知りたいという気持ちが強くなりました。(沖野)

 僕は放射線影響研究所、多聞院、現代美術館、頼山陽文徳殿に行きました。多聞院では毎朝8時15分に鐘を鳴らしています。副住職さんの「近くを歩いている人が鐘の音を聞いて、8時15分の意味を考えてほしい」という説明を聞いて、こうした日々の一つ一つの行動が、平和につながって行くんだなと感じました。(伊藤)

 今回僕は、テーマを発案し、取材のリーダーを務めました。比治山公園は、ふだんからクラブ活動などで馴染みのある場所だったので、ぜひ一度取材したいと思っていました。取材を通じて今まで知らなかった比治山の歴史や魅力など、たくさんのことがわかったので、とても楽しかったです。(岩田)

 現代美術館の取材に行きました。個人的に一番おすすめしたいのは、野外彫刻「Earth Call Hiroshima(地球電話-広島)」です。私はこの作品の、電話だからといって無理に話さなくてもいい所が好きです。例えば平日の夜にかけると、しーんとしていて、風や枝が揺れる音が分かります。一方、お花見の時期は、遠くから子どもの歓声が聞こえて、満開の桜はきれいだろうなと想像することができます。目を閉じて耳を傾けていると、実際に比治山にいなくても、比治山を感じることができます。ぜひたくさんの人に電話をかけてほしいです。(藤井)

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