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ジュニアライターがゆく

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第57号) 平和大通りを歩く

 広島市内のデルタを東西へ横切る「平和大通り」。「100メートル道路」とも呼ばれ、緑の茂(しげ)る1本の道は5本の川を越(こ)え、広島のメインストリートです。

 戦前は幾(いく)つもの道が東西へつながっていました。太平洋戦争が始まり、空襲(くうしゅう)が激しくなると、この道の両脇の家を壊して空き地を造る「建物疎開(そかい)」が始まりました。原爆が落とされたあの日も朝から作業があり、6千人前後の動員学徒が犠牲(ぎせい)になりました。

 復興の中で、その空き地を生かして建設されたのが平和大通りです。広島県内の市町村から多くの木が寄せられ、焼け野原の街に緑が戻(もど)りました。通りのあちこちに慰霊碑も建てられ、名前通り平和を願う場にもなりました。

 平和大通りのグリーンベルトを歩くとき、ちょっと立ち止まってみませんか。被爆地の歩みが見えてくるはずです。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学、高校生の25人が自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

紙面イメージはこちら

復興象徴 緑のベルト

供木運動 街に希望の色彩

樹木医・堀口さんと観察

 原爆投下で焼け野原になった街に延びたのが、今の平和大通りです。広島市は当時の広島県内の市町村に呼び掛(か)け木を寄付してもらいました。「供木(きょうぼく)運動」といいます。

 西区の樹木医、堀口力さん(73)と歩き、木々を観察しました。中国新聞社前をスタートし、まず白神社(しらかみしゃ)へ向かいました。「原爆が投下された時、木は真っ黒に焦(こ)げてしまった」。堀口さんは被爆直後の周辺の写真を見せながら語ります。神社の拝殿(はいでん)は跡形(あとかた)もなく、石柱も曲がっています。

 そばにあった大きなクスノキも焼けました。ただ、その大木は焼け跡で再び芽を出し、市民の生きる希望になったそうです。緑がいかに大切か、教えてくれるエピソードです。

 近くに、今もしっかり生えているように見えるムクノキは被爆樹木です。ただ被爆した木は爆心地側に幹が傾(かたむ)いたり、葉が黄色がかったりするなど特徴(とくちょう)が見られるそうです。

 供木運動による木も残っています。市によると1957~58年の運動で平和大通りに植えられた木は約6千本。2015年の調査では平和大通りにある全体約2200本のうち、供木は約360本ありました。

 広島クリスタルプラザ前の「トキワギョリュウ」も供木とみられます。3本ありましたが今は1本に。堀口さんは「寿命(じゅみょう)を迎えている」と言います。このまま木が少なくなり、ずっと見慣れていた光景が変わっていくのは寂(さび)しく感じます。

 「木の声を聞いて」と強調する堀口さん。現在の大通りの木は全体的に葉が少なく、土も乾(かわ)いて水不足だと指摘(してき)します。「過剰(かじょう)に手を加える必要はないが、木が生きやすいように人から手を差し伸(の)べないと」

 「緑は平和と希望の色」という言葉のように、平和と希望の色に包まれる街になればいいなと、願いました。(高3池田穂乃花、中2林田愛由)

一帯に慰霊碑 祈りの空間

 平和大通りについて、「平和記念公園から延長される平和空間」と説明するのが竹屋公民館(中区)を拠点(きょてん)に活動する原爆慰霊碑ガイドボランティア「ヒロシマ」代表の玉置和弘さん(50)です。「現地を歩きながら当時の空気を感じてほしい」と碑巡(めぐ)りの大切さを話します。一帯に17カ所ある慰霊碑のうち、竹屋公民館周辺の3カ所を案内してもらいました。

≪広島県立広島第一高等女学校「追憶之碑」≫

 被爆時に学校があった場所に立っています。横の門柱はその証し。土橋付近で建物疎開作業中だった1年生223人を含(ふく)め、亡くなった約300人の名前を、そばの銘板(めいばん)に刻んでいます。その一つ一つに自分と同世代の命がありました。(高2平田佳子)

≪移動演劇さくら隊原爆殉難碑≫

 原爆では、たまたま広島に来ていた人たちも巻(ま)き添(ぞ)えになりました。全国を回って演劇していた「桜隊」の9人は広島市堀川町の宿舎で被爆します。東京まで逃げて亡くなった仲みどりさんは、初めて原爆症と診断されました。1955年、演劇界の有志が宿舎に近い現在地に建てました。(中3岩田諒馬)

≪広島市医師会原爆殉職碑≫

 高さ12メートルの碑は手と手を合わせた形です。原爆で亡くなった医師や看護師、助産師たちを悼(いた)み、1960年に広島市医師会が建てました。あの日、広島で医療(いりょう)に携(たずさ)わっていたのは2千人以上。その多くが被爆しながらも、けが人の手当てに努力しました。(高1フィリックス・ウォルシュ)

平和大通りの歴史 石丸紀興・元広島大教授に聞く

市民の犠牲や協力で完成

 平和大通りの歴史を、広島の復興史に詳(くわ)しい元広島大教授の石丸紀興さん(77)に聞きました。

 もともと城下町だった広島は、碁盤(ごばん)目状に道が並んでいました。太平洋戦争中にあった建物疎開は、「防火帯」を道に沿って東西へ造ることが目的でした。街を南北に分け、空襲による火災が広がるのを防ぐためです。しかし原爆は街を丸ごと火の海にしました。

 被爆翌年に立てられた復興計画は、防火帯を基に道路を造ることを柱の一つに。幅が100メートルあれば防火の機能を果たすと考えられ、憩(いこ)いの場にする目的も加えられました。名前も応募(おうぼ)で「平和大通り」に。しかし市民は必ずしも好意的ではありませんでした。

 立ち退かされた人もいて、市全体で住宅不足が深刻だったからです。「道幅を減らし家を建てて」という強い意見もあり、市は元軍用地だった基町に公共住宅を造ることで問題の解決を図ります。一方で、平和大通りは木を植えたり彫刻(ちょうこく)を置いたりして、魅力(みりょく)を高めることで完成を目指し、1965年に全通します。

 市民の誇(ほこ)りへと成長したきっかけは、75年に初優勝した広島東洋カープのパレード、そして2年後に始まった「ひろしまフラワーフェスティバル」でした。石丸さんは「市民の犠牲や協力によって完成したのが平和大通り。大切にし工夫して使っていきたい」と話します。(高1目黒美貴)

(2018年6月21日朝刊掲載)

【編集後記】
 広島のシンボルともいえる平和大通りですが、どのような歴史を経て今の姿になったのかは、取材に参加するまでほとんど知りませんでした。戦後、100メートル道路を作る計画は、全国各地で立てられましたが、最終的に実現したのは名古屋と広島だけだそうです。市民の反対を受けつつも完成までこぎつけた当時の広島の人々の、復興にかけた熱い思いが感じられました。(目黒)

 私は取材した日まで、平和大通りをただの「道」だと思っていました。しかし、樹木医の堀口さんと一緒に歩いてみると、平和のシンボルである多くの木々が立ち並び、通り全体が温かい空気に包まれているような気がしました。そして、平和大通りを広島の誇りに感じるようになりました。

 堀口さんは「市民が樹木をケアすることが大切だ」と強調します。私も広島に暮らす者として、木を大切にする思いだけは持っていたいです。(池田)

 僕は、3つの原爆慰霊碑を巡って「なぜこの場所に建てられたのか」を学ぶことができました。今回は、広島市民でない人も原爆に遭い亡くなったと知りました。ガイドボランティア「ヒロシマ」の皆さんから、「慰霊碑を見て、亡くなった人たちの思いを感じ取ってほしい」という思いを聞き、しっかりと自分の目で見て、確かめていきたいと思いました。(岩田)

 今回、平和大通りを堀口さんと一緒に歩かせてもらい、貴重な経験になりました。堀口さんは、以前本を読んで知っていた人なので、いつかお話を聞きたいと思っていました。多くの平和大通りの木が「寿命」に近づいているということを初めて学び、とても驚きました。この緑がなくならないように、私たちが守っていかなければと思いました。(林田)

 原爆慰霊碑ガイドボランティアの玉置さんは、「建物の中でスライドを見て学ぶのではなく、現地に行き、歩きながら当時の空気を感じることに意味がある」と強調しました。私は今回取材するまで平和大通りにある慰霊碑に注目することはありませんでした。しかし、一帯はフラワーフェスティバルなどの華やかな行事の開催場所。それだけに、ひっそりと建つ碑の存在はより大きく、重たいものだと実感しました。(平田)

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