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ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第45号) 呉空襲を考えた

「この世界」舞台 繰り返し爆撃

 戦争中から終戦後にかけての呉市を舞台(ぶたい)にした、こうの史代(ふみよ)さんの漫画を原作とするアニメ映画「この世界の片隅(かたすみ)に」の大ヒットで、呉空襲(くうしゅう)への関心が高まっています。かつて「東洋一の軍港」と呼ばれた呉は1945年になって米軍の爆撃(ばくげき)を繰り返し受けました。

 海軍の関係者だけでなく子どもたちも含(ふく)め、多くの市民が犠牲(ぎせい)になりました。特に、45年7月1日夜から2日未明にあった市街地空襲の被害は死者約2千人ともいわれ、むごいものでした。落とされた焼夷(しょうい)弾による火災に焼かれるだけでなく、逃(に)げ込(こ)んだ防空壕(ごう)での窒息死(ちっそくし)も相次いだのです。

 あれから72年。空襲を体験した人たちの高齢化(こうれいか)が進んでいます。ジュニアライターたちが空襲の歴史を学べる場所を訪ね、惨劇(さんげき)に思いを巡らせました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学1年から高校3年までの27人が、自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

紙面イメージはこちら

市内の戦跡歩いた

被害の爪痕 今もなお

 呉市内には現在も使われている旧海軍施設(しせつ)のほか、爆撃の跡(あと)が残る神社や空襲の犠牲者を弔(とむら)う慰霊碑(いれいひ)などがあちこちにあります。空襲の調査を長年、続けてきた「呉戦災を記録する会」代表の朝倉邦夫(あさくら・くにお)さん(80)=呉市宮原=の案内で、戦跡(せんせき)や「この世界の片隅に」の舞台を歩きました。

 呉湾(くれわん)を望む「歴史の見える丘」に立つと造船所のドックがあり、戦艦大和(せんかんやまと)を建造した大屋根が見えます。道路沿いには機密事項(じこう)だった大和の製造過程を見えなくした目隠(めかく)し塀の一部が今も残っています。当時の人たちが、どんな思いでこの横を通っていたのかを考えました。

 高台にある亀山(かめやま)神社に奉納(ほうのう)された歴史あるこま犬に近寄ると、片方の台座に亀裂(きれつ)が入り、石が焼けただれて変形していました。「7月の市街地空襲で焼夷弾が爆発(ばくはつ)し、高温のナパームが飛び散った跡です」と朝倉さん。「こま犬は呉空襲を伝える数少ない生き証人」と教えてくれました。

 児童公園の一角に立つ「殉国之塔(じゅんこくのとう)」は1945年6月22日の海軍工廠(こうしょう)への空襲で亡くなった約470人の女子挺身隊(ていしんたい)や学徒動員の人たちを慰霊する碑です。65年に仏教婦人会が中心になって建立しました。女学生らは海軍工廠の労働力不足を補うため、中四国から集められていました。

 兵隊の人たちとは違(ちが)ってお墓も作られず、遺骨がただ埋(う)められただけだったそうです。私たちと同世代。とてもショックでした。

 「この世界の片隅に」の中で、主人公のすずさんが通っていた家の前も歩きました。当時空襲を受けた人たちのことを想像して、胸が痛みました。「爆弾(ばくだん)がばらばらと落ちる中、すごい恐怖(きょうふ)心と苦痛を味わった。呉の歴史を次の世代に伝える人を増やしたい」。朝倉さんは力を込めます。(高2沖野加奈、中1林田愛由)

生存者の声聞いた

防空壕で多数が窒息死

 呉空襲の体験者から証言を聞くことができました。宮本澄枝(すみえ)さん(90)です。

 呉市の和庄(わしょう)公園の前には戦時中、防空壕(ぼうくうごう)が五つ並んでいましたが、今も近くに住んでいます。7月1日夜からの爆撃が激しさを増す中、両親と妹の4人で防空壕へ逃げました。

 避難(ひなん)する人が押(お)し寄(よ)せ、壕の中は次第にぎゅうぎゅう詰(づ)めに。宮本さんは肩(かた)からかけていた水筒(すいとう)を動かすことすらできませんでした。酸欠状態になり、のどはからから。「お母ちゃん水!」「しっかりして」。叫(さけ)び声が飛び交い、体力のないお年寄りや赤ちゃんが次々に息絶えました。

 真っ暗でどこが出口か分かりません。人の頭の上をほふく前進で移動したり、他人を蹴(け)ったり。「生きるか死ぬかの瀬戸際(せとぎわ)で、作法も何もなかった」と宮本さんは振(ふ)り返ります。

 空襲が終わった後、外に出た宮本さんは、ぞうきんを絞(しぼ)った水を飲んだそうです。周囲には防空壕で亡くなった赤ちゃんや、小さな子どもたちの遺体が並んでいました。死者はここだけで550人もいたと伝えられています。

 宮本さんは戦後、父を受け継いで公園の供養地蔵を守り、毎年7月には慰霊祭を開いてきました。高齢のため、戦後70年のおととしを最後に慰霊祭を主催(しゅさい)するのはやめましたが、今でも地域の小中学生や、県外の人に体験を伝え続けています。

 「やられたらやり返すのが戦争。戦争は恐(おそ)ろしい」と宮本さん。今回の取材を通し、空襲の被害や惨状(さんじょう)を初めて知りました。原爆とは異なる視点で、戦争と平和を考えることができました。(中2植田耕太)

継承の思い受け取った

平和な未来 紙芝居で訴え

 呉空襲を子どもたちに伝える試みを取材しました。紙芝居(かみしばい)「ふうちゃんのそら」は、当時7歳だった中峠房江(なかたお・ふさえ)さん(79)=呉市焼山泉ケ丘=の実際の体験を描いたものです。呉市の絵本作家、よこみちけいこさん(44)たちがおととし作りました。

 中峠さん本人に、紙芝居を上演してもらいました。「ウー、ウー」。1945年7月1日夜、サイレンの音を聞き、「ふうちゃん」は5歳(さい)年上の姉と一緒に防空壕に逃げ込みます。小さなふうちゃんは人の渦にのまれ、煙とものすごい熱で気が遠くなりました。知らない人に助けてもらったことや、外に出ると一面が焼け野原になっていたことなどが、やさしい筆遣(ふでづか)いとわかりやすい言葉で描かれています。

 よこみちさんは空襲の様子を描きたいと思っていたところ、中峠さんに出会ったそうです。子どもたちにしっかり伝わるよう物語を凝縮しました。血がたくさん流れて亡くなったお父さんの絵は、子どもが怖がらないよう控えめに表現するなど、工夫しています。

 これまで地元の幼稚園(ようちえん)や保育園を中心に150回、上演されたといいます。紙芝居はおばあちゃんになったふうちゃんが、孫の手を握(にぎ)るシーンで終わります。子どもの未来が愛に満ちた平和な世界であってほしい、という願いが込められています。

 誰(だれ)だって生まれてくる時にはたくさんの人に祝福されます。それが平和です。その平和を崩(くず)してはいけない、子どもたちにはそのことに気付いてほしい、と中垰さんは言っていました。紙芝居を見て、呉空襲を想像することができました。多くの人に見てほしいと思います。(中3川岸言織、中1林田愛由)

軍港の歴史 教わった

軍艦建造次々 米の標的に

 なぜ、呉市は爆撃されたのでしょうか。大和ミュージアムを訪れて、学芸員の杉山聖子(せいこ)さん(38)から軍港として栄えた街の歴史と、空襲の被害について教わりました。

 のどかな漁村だった「呉浦」に1889年、日本の海軍の呉鎮守府(ちんじゅふ)が置かれました。山に囲まれ、瀬戸内海(せとないかい)に面した地形や、良質な水を確保しやすいことなどが理由です。これをきっかけに呉は横須賀(よこすか)、佐世保(させぼ)、舞鶴(まいづる)とともに、海軍の拠点(きょてん)となりました。

 呉市が誕生した翌年の1903年、国産の軍艦(ぐんかん)を製造する呉海軍工廠が設立。軍人や技術者が全国から集まる街へと発展しました。軍艦などを次々と建造し、41年には大和が完成します。米軍が戦略的に呉を爆撃したのは、このためです。大和ミュージアムによると、空襲は45年3~7月に計14回に及び、うち7月の市街地空襲など6回で大きな被害が出ました。

 「日本全体が軍国主義へと進む中、軍港だった呉が何度も空襲を受けた。歴史を学んだ上で、平和とは何かを考えてほしい」という杉山さんの説明を聞きながら、地域と戦争との関わりをあらためて考えました。(中3伊藤淳仁、川岸言織)

(2017年6月15日朝刊掲載)

【編集後記】

 今回初めて「ピース・シーズ」の取材に参加しました。私は、呉空襲についてほとんど何も知りませんでした。中学生や高校生が海軍の工場で働いていたということにも衝撃を受けました。戦時中の学生の暮らしについて、もっと伝えていきたいです。(林田)

 僕はこれまで、呉空襲があったことは知っていましたが、詳しいことはまったく知りませんでした。しかし、今回の呉空襲をテーマにした取材で、呉の町が経験した、もうひとつの素顔を見ることができました。広島は、原子爆弾だけでなく、呉空襲もあったことを学校で教えるなど、いろいろな方法を通して、もっと広める必要があると感じました。(植田)

 今回の呉空襲の取材で感じたことは2つあります。1つ目は、空襲の被害の大きさです。軍港や軍施設が集中的に爆撃され、市街地も狙われるなど、呉は繰り返される空襲で一面焼け野原になりました。一発の原爆で破壊された広島市とは違う大きな被害を受けたことを知りました。2つ目は、呉空襲をどう伝えるかです。呉の被害については、今までよく知りませんでした。中峠さんは、以前は語り部をなさっていましたが、話すだけでは伝わらないと感じ、紙芝居を始めたそうです。私たちも、伝え方を考えていきたいと思います。(川岸)

 僕はこれまで呉空襲についてあまり知りませんでした。「呉には軍港があったから、空襲もあったんだろうな」という程度の認識でした。しかし、大和ミュージアムで説明を受け、朝倉さんとさまざまな場所へ行ったことで、呉空襲も原爆と同じように、学び、伝えていくことが大切だと感じました。(伊藤)

 学芸員の杉山さんの案内で、大和ミュージアムを見学したことが印象に残っています。展示品は、空襲の後に拾われた焼夷弾や、血跡が残る軍艦旗、「人間魚雷」と呼ばれた特攻兵器など、初めて見るものばかりでした。今まで原爆について取材することが多かったのですが、今回の呉取材で、「海軍の町」という別の視点から「戦争の恐ろしさ」を感じることができました。今後も、国内外を問わず多くの視点から平和について考えていきたいです。(沖野)

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