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ジュニアライター発信

Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第40号) 中国残留孤児たちは今 

祖国での暮らし 苦難の中に光

 「中国残留孤児」を知っていますか。太平洋戦争が1945年8月に終わっても、旧満州(中国東北部)にとどまることを余儀(よぎ)なくされた当時13歳未満の子どもを指します。混乱の中、父母との死別などで現地に取り残され、中国人に育てられました。

 日本政府が帰国に向けた支援(しえん)を始めたのは、中国との国交が回復した72年。孤児が家族と会って手(て)掛(が)かりを探す訪日調査は、81年になってからでした。念願かない帰国できても、すでに中高年。日本語が壁(かべ)になってコミュニケーションが取れなかったり、仕事が見つからなかったりする問題が生まれました。

 厚生労働省によると、残留孤児と分かったのは昨年末時点で2818人。うち2556人が永住帰国しました。老後を送る孤児、そして、支える子や10代の孫、ひ孫といった世代は、どんな暮らしを日本でしているのでしょうか。今の姿を追いました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学1年から高校3年までの30人が、自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

紙面イメージはこちら

祖国での暮らし 苦難の中に光

残留孤児

寺岡満行さん(72)

波乱の人生 前を見据え

 「近所の人は中国人だと思っている。仕方ないのかな」。中国残留孤児の寺岡満行さん(72)=広島市中区=は、中国語でそう話します。身元判明から30年がたちましたが、日本語が話せず間違えられます。しかし悲観せず、自分の人生を受け入れ、前を見(み)据(す)えます。

 生後7カ月の1944年、現在の佐伯区湯来町から佐伯開拓団の一員として家族と満州へ渡(わた)りました。終戦後、父と姉2人が病死。母だけでは6人の子全員を連れて帰れず、末っ子の満行さんは、子のいない中国人の養父母に預けられました。かわいがってもらい、大学にも進学。高校の数学教師になりました。

 身元が分かったのは、厚生省(現厚生労働省)の肉親捜(さが)しの調査団で来日した86年でした。面会した兄や姉の証言で判明。「突然(とつぜん)で現実だと受け入れられなかった」。それでも翌日、湯来町に帰り墓参りをした時は「親族が眠(ねむ)っていると思うと涙(なみだ)が止まらなかった」と言います。

 養父母も亡くなり、自身の定年退職を機に2004年に60歳で帰国。日本でのルール、マナーを学びましたが、日本語はなかなか覚えられませんでした。今はパソコン教室に通って楽しんでいます。

 母に恨(うら)みはありません。「混乱した状況(じょうきょう)だったので現実的な方法だった」。中国の養父母にも「引き取ってくれたから成長できた」と感謝します。現代の若者に「夢を追い掛(か)けてほしい」と願う寺岡さん。優しいまなざしは、子どもを見つめる教師のようでした。 (中1岩田諒馬)

子世代(2世)

松葉静子さん(44)

日本語学習 支援を

 松葉静子さん(44)=広島市西区=が故郷の中国山東省から日本に来たのは27歳の時。帰国がようやく実現した中国残留孤児の母(84)、そして父、夫と一緒(いっしょ)でした。最初は日本語が分からず苦労の連続。やっと習得しましたが、自分のような働き盛りの残留孤児2世のため「言葉を学べる環(かん)境(きょう)を整えてほしい」と訴(うった)えます。

 福岡県内の定着促進(そくしん)センターで日本の生活ルールなどを学んで、廿日市市に移り住みました。が、最初家に置いてあったのはストーブだけ。テーブルもなく近所の店も分かりません。妊娠(にんしん)して病院に行っても医師の話すことが全く分からず、最後に「OK?」と聞くしかありませんでした。

 日本語は広島市内の自立研修センターや、近所の公民館の教室で覚えました。公民館ではボランティアから教わり「質問しても『分からない』とよく言われた。専門教師なら勉強がもっと進んだと思う」。

 2007年から残留孤児や家族を支える中国・四国中国帰国者支援・交流センター(南区)に勤め、言葉の壁(かべ)で就職や育児に悩(なや)む人を見てきました。「日本語ができれば孤立せず人間関係を築け、生活が安定する。経済面以外の手厚い支援も」と望みます。(中1植田耕太)

孫世代(3世)

寺岡恵美さん(12)

優しい祖父 「誇りに思う」

 白島小(広島市中区)6年の寺岡恵美さん(12)は、数奇(すうき)な運命をたどった中国残留孤児の祖父満行さん(72)を「誇(ほこ)りに思う」と尊敬します。

 小学4年の時、満行さんが学校で、ひもを使って飾(かざ)りを作る「中国結び」を児童に教える機会がありました。優しく接する祖父を見て、恵美さんは同級生に自慢(じまん)しました。日本人なのに「中国人」と同級生から悪口を言われることもありましたが、めげません。

 6年になり、満行さんの身元が分かった約30年前の新聞記事を読んで、生い立ちを知りました。「こんなすごい人が近くにいるなんて。生きてくれたおかげで自分も生まれた」。「私のおじいちゃん」という題で作文を書きました。

 将来の夢はファッションデザイナー。世界を回りながら祖父の体験を伝え、差別のない社会を呼び掛(か)けます。(高1中川碧)

ひ孫世代(4世)

中村成さん(18)

日中をつなぐ懸け橋に

 曽祖母が中国残留日本人の広島桜が丘高(広島市東区)3年中村成(せい)(孫慧成(そん・けいせい))さん(18)は、中学2年の2013年3月、10年から広島に住んでいた母に呼び寄せられ、中国から来日しました。話せなかった日本語を必死に勉強して高校に合格。今は大学進学も決め、日本と中国をつなぐ計画を練っています。

 広島に来て、曽祖母が日本人で広島にいると、母から初めて聞いて驚(おどろ)きました。日本語は中学で毎日3時間の授業を受け、放課後も休日も勉強。「中国で普通(ふつう)に暮らしていたのに、どうして日本に来て別の言葉を習わないといけないのか」。悔(くや)しくて布団の中で泣く夜もありました。

 言葉の上達とともに積極的になり、高校では生徒会長を1年半務めました。アドミッション・オフィス入試で長崎県立大(長崎県長与町)に合格。今春に入学します。親身に教えてくれた日本語教師や今の担任のような高校教師になるのが目標です。

 長崎では、被爆地を訪れる中国人観光客を案内し歴史を正確に伝えたり、中国生まれの子に日本語や日本のマナーを教えたりしたいそうです。「多くの中国人が日本に悪いイメージを持っている。誤解を解きたい」。日中の間に立つ境遇(きょうぐう)を生かします。(高3山下未来)

河本尚枝・広島大准教授

国策の悲劇 今なお続く

 中国残留孤児を生んだ歴史的な背景や、帰国後の問題を、外国人の社会福祉(ふくし)に詳しい広島大の河本尚枝准教授に聞きました。

 満州への大規模な移民は1936年ごろから国策として始まりました。農家の次男や三男、廃業(はいぎょう)した商店主らが「開拓団」として向かったほか、若い男性が国境の防衛と開墾のため「義勇隊」として赴(おもむ)きました。広島県からは1万1千人が移りました。

 終戦後、旧ソ連軍の襲撃(しゅうげき)や氷点下30度になる寒さ、飢(う)えで多くの人が命を落としました。そして日本に戻れず、残留孤児になる子が出ました。中国人の反日感情から孤児は日本人であることを隠(かく)す必要もありました。

 帰国できても、日本語を学ぶのは大変です。学校教育を受けられなかったため、社会性に乏(とぼ)しい人もいます。ただ、孤児も家族も「日本人と交流したい」という気持ちはあります。周囲の人から声を掛け、相互(そうご)理解する必要があるでしょう。(高2正出七瀬)

(2017年1月19日朝刊掲載)

【編集後記】

 私は中国残留孤児4世に当たる中村さんに取材をしました。中村さんは、自らのバックグラウンドを見つめ、日中関係を改善するためのプランを具体的に決めていました。今回初めて経験した同級生への取材。今後の展望に思いをはせるだけではなく、行動に移す中村さんの姿には刺激を受けました。私もジュニアライターとしての活動を終えてもヒロシマを発信し続けるとの展望があるので、実行できるように精進したいです。(山下)

 時代的な背景はあるにせよ、国が戦争を起こし、他の国の土地を奪った結果、国策として送り出された人が被害を受けたことを知りました。国家のための国民ではなく、国民のための国家とはどういう国なのか考えさせられました。(正出)

 私は中国残留孤児の寺岡満行さんと、孫の恵美さんに取材をしました。満行さんの中国での体験や日本に帰ってきてからの生活は、驚くことがたくさんありました。恵美さんは、祖父の満行さんのことを「誇りに思う」と尊敬していて、どんなことに対してもポジティブに考えます。「小学生なのにすごいな」と感じました。残留孤児の問題について、もっと多くの人に知ってもらいたいと思いました。(中川)

 僕は取材を始めるまで、旧満州(中国東北部)について「昔、そういうところがある…」という程度に考えたことしかありませんでした。しかし中村さんに会い話を聞く中で、同世代にもゆかりのある人がいるということを知り、とても驚きました。普通に生活していたら、気付かないかもしれません。それほど身近でした。中国残留孤児の人は、今も言葉の壁で困っているという話を聞きました。これから僕たちも周りのことをよく知って、残留孤児の人や家族が自由に生活できるよう役立てたらいいなと思いました。(岩田)

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