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ジュニアライター発信

[ジュニアライターがゆく] 広島県内 四つの慰霊碑

 広島市中区の平和記念公園とその周りには原爆犠牲者(ぎせいしゃ)の慰霊碑(いれいひ)が多くあり、歩いて巡(めぐ)る修学旅行生や観光客の姿を見かけます。実は公園から離(はな)れた場所にも、いくつもの慰霊碑が静かに立っています。それぞれ、どのような背景(はいけい)があるのでしょうか。中国新聞ジュニアライターは、広島県内にある四つの慰霊碑を訪(たず)ねました。近くの住民に話を聞いたり、本で調べたりしているうちに、地域と原爆の関わりや、慰霊碑に込められた平和への思いが分かってきました。

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訪ねる

爆心地の空 指さす像

堀川町原爆慰霊碑(広島市中区新天地)

 広島市中区の中央通り沿いに、人間が爆心地(ばくしんち)の方向を指さしているような形のブロンズ像が立っています。堀川町の原爆慰霊碑です。

 近くで写真店を営む生長(いくなが)俊幸さん(68)に話を聞きました。生長さんの父で被爆者の良三さんたち住民が、1957年に建てました。堀川町は当時から繁華街(はんかがい)で、爆心地から約750メートルと近く、住民185人が亡(な)くなりました。

 「住宅や商店はほとんど焼けた。ここから約5キロ南の似島まで見えたらしい」と生長さん。毎年8月6日に慰霊祭を開いてきましたが、遺族(いぞく)の高齢化(こうれいか)に伴い、現在は町内会長を務める生長さんと住民有志で像の周りでごみ拾いの活動をしています。

 像について知る人は少なく、台座を椅子(いす)代わりに使う人を見かけて胸(むね)を痛(いた)めたこともあるそうです。生長さんは「目立たないかもしれないけれど、身近にある原爆慰霊碑に目を向けて、被爆地の悲しみを想像してほしい」と話していました。

墓地の一角 ひっそりと

戸坂供養塔(広島市東区戸坂桜上町)

 爆心地から約5キロ北にある市営墓地の一角を訪れると、「供養塔(くようとう)」と彫(ほ)られた碑がひっそりと立っていました。過去の新聞記事によると、昔は多くの人がこの供養塔の前で手を合わせ、花やろうそくが供(そな)えられていましたが、今では訪れる人はめったにいないようです。

 そこで、1977年に発行された「戸坂町誌」で調べました。原爆投下直後から、大勢のけが人が戸坂国民学校(現戸坂小)に臨時(りんじ)に設置された陸軍病院の分院に収容されたそうです。

 約600人が亡くなり、火葬(かそう)されたといいます。原爆投下から約2カ月後、住民が近くの山に埋葬(まいそう)し、この供養塔を建てました。遺骨は59年に平和記念公園の原爆供養塔に移され、石碑は団地造成のため95年に今の場所へ移設されました。

 供養塔は「原爆の悲劇(ひげき)を繰(く)り返してはいけない」と無言で訴(うった)えているように見えます。

救援で犠牲の若者悼む

賀北部隊原爆被災者救援之碑(東広島市西条栄町)

 あの日、広島市の郊外(こうがい)から市街地へ救援(きゅうえん)に向かった人々がいました。米軍との本土決戦に備えて現在の東広島市の19~23歳で結成された国土防衛隊(ぼうえいたい)「賀北(かほく)部隊」の約250人もその一部です。

 8月7日から13日にかけて、軍の施設があった広島城周辺でけが人を手当てし、遺体を焼きました。多くの人が地元に戻った後に下痢(げり)や脱毛(だつもう)に苦しみ、亡くなった人もいました。

 1987年8月、元隊員たちが西条中央公園(東広島市)に記念碑を建てました。現在は、近くで美術館の建設工事が始まったため撤去(てっきょ)されており、公園内の別の場所に「引っ越し」する予定です。

 東広島市原爆被爆資料保存推進協議会の井東茂夫さん(89)は「被爆しながら懸命(けんめい)に活動した部隊のことを将来に伝えたい」と言います。原爆被害を学ぶ時、もっと広島市の外にも視点を広げたいと思いました。

豪雨で被災し「守る会」結成

小屋浦の原爆慰霊碑(坂町小屋浦)

 昨年7月の西日本豪雨(ごうう)で被災(ひさい)した坂町小屋浦。JR呉線沿いの山際にあった原爆慰霊碑は、大量の土砂と倒木(とうぼく)で埋(う)もれました。

 豪雨からちょうど1年となる今月6日、現地を訪れました。慰霊碑は、復旧作業が進む地区内の小屋浦公園に移されていました。豪雨後、住民たち約70人が「原爆慰霊碑を守る会」を結成し、慰霊碑を後世に引き継(つ)ごうと決めたのです。

 この会の代表の西谷敏樹さん(73)によると、原爆投下直後、小屋浦には宇品(現広島市南区)から約360人が船で運び込まれました。約半数が亡くなり、埋葬した場所に木柱(もくちゅう)を建てました。1987年に石碑に造り替え、確認できた93人の犠牲者の名前を記しました。

 「原爆の日」の8月6日には、新しい場所で慰霊式典を行う予定です。西谷さんは「慰霊碑は核兵器の残虐性(ざんぎゃくせい)を語っている。若い人が原爆被害に関心を持つきっかけになれば」と話していました。

(2019年7月15日朝刊掲載)

【取材を終えて】

 今回、坂町小屋浦の原爆慰霊碑を取材した時、西谷さんの「原爆による多くの犠牲の上に、今の平和が築かれている」という言葉がとても心に響きました。原爆に限らず、戦争や紛争などを経験して、平和の大切さをあらためて認識したことで、私たちは今、勉強もできて、安心して生活することもできているのだと思いました。悲惨なことを繰り返さず、平和を築いていくために、私にできることの一つは、「広島で起きた原爆の被害を同世代に伝えること」だと思いました。その行動が少しでも平和につながればいいなと思います。(中3桂一葉)

 私は、「戸坂供養塔」がある地域に住んでいます。しかし、供養塔があることを知らず、多くの被爆者が戸坂に逃げて、600人も亡くなったことに驚きました。私のなじみ深い場所で、74年前のあの日、苦しむ被爆者と遺体の処理で黒い煙に包まれたなんて想像がつきません。これからは毎年、8月6日に供養塔へ行き、花を供えたいと思います。積極的に町内会の行事などに参加し、戸坂に住んでいる人たちに、この供養塔について知ってもらいたいです。戸坂以外にも、自分が今までよく通っていた場所に、このような原爆の供養塔や慰霊碑があったかもしれないと思うと、情けなくなりました。残された原爆の傷痕が他にもないか探そうと思います。(中3岡島由奈)

 西谷さんの「若い人々の犠牲の上に今日の平和が築かれている」という言葉が印象に残っています。毎日安心して暮らすことができるということに感謝して生活していきたいです。また、小屋浦の住民の手で原爆慰霊碑を守っていこう姿に感動しました。被爆者が高齢化していく中で、若い人たちが被爆者の思いを受け継いでいくということはとても大切だと思います。私も積極的に被爆者から話を聞き、戦争という事実を風化させないように発信していきたいです。(高1柚木優里奈)

 今回取材して一番に思ったことは、自分の知らない原爆関連の慰霊碑がたくさんあって、ショックだったということです。今まで何度も通ったことのあるはずの場所なのに、そこに慰霊碑があるということをまったく知りませんでした。もっと慰霊碑について学ばないといけないなと思いました。また、どのような慰霊碑にも、それを建てた方々の思いが込められているということも、改めて思いました。今回学んだことを、まずは自分の身近な人に知ってもらえるように頑張ろうと思いました。(中3林田愛由)

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