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核なき世界への鍵

[核なき世界への鍵 次代の力]  学生が「あの日」代弁 平和公園ガイド

感情 ストレートに表現

 「碑めぐりガイドします!」。3連休最終日だった17日。世界遺産の原爆ドーム(広島市中区)の前に、日英両語で手書きした紙を持った安田女子大1年山内瑞貴さん(18)=南区=がいた。「この場所には繁華街があり、多くの人が暮らしていました」。ゆっくりとした口調にフランスから来た旅行者たちが真剣に耳を傾けた。

 大学に入った今春、平和記念公園でボランティアのガイドを始めた。胎内被爆者の三登浩成さん(71)=広島県府中町=たちのグループに加入。「研修生」の名札を下げ、土、日曜を中心にアルバイトの合間を縫って「もの言わぬ証人」のそばに立つ。動員学徒慰霊塔、爆心直下の島病院など園内や周辺も歩く。時には英語で外国人にその由来を伝える。

 「建物疎開に駆り出されていた罪もない多くの子が犠牲になった」「繁華街が一瞬で壊滅した」…。この日も、自分が「怖い、悲しい」と感じた「あの日」をストレートに伝えた。「恐ろしさを知り、二度と繰り返しちゃいけないと思ってほしいから」

高校時代に興味

 広島市で育ち、小中学で平和教育を受けたが、深い関心はなかった。きっかけは高校2年の夏。英語力を伸ばそうと、市青少年センターが開く公園での英語ガイド体験に参加し、各国からの旅行者との交流に興味を抱いた。

 同じ頃、知人の紹介で、被爆の実態を紹介するウェブサイトの証言収録を手伝った。相手はブラジル被爆者平和協会の森田隆会長。初めて被爆者の生の証言に触れた。異国の地で病気と闘いながら平和活動を続ける姿を見て考えた。「受け継がないと無駄になる。できることをやろう」

 高校時代に5回ほど、友人と案内ボードを手作りし、公園に立った。被爆前後の状況も勉強し、その足元で起きた悲しい歴史を知った。外国人を案内すると「知らなかった。聞けてよかった」と受け止めてくれた。やりがいを感じ、ガイドを続けたくて進学先を地元に絞った。

 「試行錯誤しながら成長してくれれば」。本格的な活動を始めた山内さんを、三登さんは期待を込めて見守る。昨年5月のオバマ米大統領(当時)の訪問を経て広島への注目は高まり、公園を訪れる人は増え続ける。

「経験は生きる」

 ガイドの役割は増すばかり。ただ、職業にするのは難しく、有志で活動する十数団体の主力の多くは60歳代以上。年老いた被爆者が担うケースもある。三登さんは「若い人が継続できる環境がないと、いずれ絶対数が足りなくなる」と心配する。

 山内さんは「大学にいる間は続けたい」と言う。卒業後は小学校教員を志す。平和教育を通じ、被爆の実態や平和の大切さを伝えるのが目標だ。「ガイドの経験は必ず生きる」。自身は被爆3世だが、あまり意識してこなかった。この夏、世羅町で暮らす被爆者の祖父に初めて体験を聞くつもりだ。(長久豪佑)

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 今月7日、国連で核兵器禁止条約が制定された。ただ、核保有国や「核の傘」の下にある日本は反対。廃絶への道のりはなお険しく被爆地からの発信が欠かせない。被爆から72年。条約制定の推進力になった被爆者は老いを深めた一方で、その思いを継承しようという動きが各地で生まれている。核兵器なき世界の扉を開く「次代の力」を追う。

(2017年7月26日朝刊掲載)

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