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核なき世界への鍵

核なき世界への鍵 現在地 <2> ヒバクシャ署名 痛み押し「最後の運動」

 16歳で原爆に容赦なく焼かれ、皮下脂肪と汗腺を失った背中は瘢痕(はんこん)という薄い膜が覆う。大きく息を吸うと痛み、冷気は体に一層しみいる。その体を押して、長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄(すみてる)会長(87)は先月26日、寒風吹く長崎市の繁華街に立った。マイクを通しても小さく、かすれた声を絞り出した。「署名にご協力を」

 集めていたのは、党派を超えて核兵器を禁止し廃絶する条約の締結を各国に迫る「ヒバクシャ国際署名」。被爆者の唯一の全国組織、日本被団協の提唱で2016年4月に開始。被爆75年の20年までに数億筆を目指す。長崎では被災協など被爆者5団体が、推進組織「県民の会」を結成。毎月26日の街頭署名と自治体への協力要請を続ける。

 谷口さんは入退院を繰り返しながら先頭に立つ。長崎市の田上富久市長も谷口さんの直談判を受け、先月参加した。長崎県内の市町で庁舎への署名箱設置や広報紙でのPR、首長の署名が広がる。「禁止条約のためなら、はってでも出向きたい。生きてる者の使命だから」。民官の連携は同じ被爆地広島の先を行く。

 1945年8月9日、郵便配達中に爆心地から約1・8キロで被爆。3年7カ月入院し、1年9カ月はうつぶせのまま背中のやけどを治療した。あまりの痛みに「殺してくれ」と何度も叫んだ。床擦れで左胸の肉が腐り落ち、心臓の拍動が目に見えるようになった。

 同時期に入院していた長崎の被爆者、山口仙二さんの誘いで電報局に勤めながら被爆者運動に関わった。54年、米国の水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)したビキニ事件を機に、原水爆禁止署名が国民的運動として広がり、1年余りで3千万筆超に。56年の日本被団協結成につながった。

 60年代にソ連の核実験を巡り、原水禁運動が分裂後も地道に署名集めや核実験への座り込みを続けた。「焼けた背中」の写真を手に証言も。82年には国連軍縮特別総会に伴う被爆者たちの渡米団に加わり、世界約1億筆の反核署名を届けた。

 署名を力に世界への訴えを続けたが、願いは実現せず、運動を支えた仲間は次々と逝った。82年の国連軍縮特別総会での演説で「ノーモア・ヒバクシャ」と訴えた山口さんは13年に82歳で死去。共に座り込んできた谷口さんの妻栄子さんも16年4月に亡くなった。だから、被爆者の「最後の運動」として今回の国際署名にかけている。「原爆で生きるか死ぬかした人間の話から、条約がなぜ要るか多くの人に分かってほしい」

 谷口さんの思いは次代に受け継がれている。その一人が、長崎市出身の被爆3世で明治学院大大学院生の林田光弘さん(24)=横浜市戸塚区。ヒバクシャ国際署名の事務局でPRを担う。

 若者たちへも賛同を広げようと昨年8月、インターネットの大手署名サイトでも呼び掛けを始めた。現在、約900筆。同じサイトで数万筆に達する「反原発」や「過労死」関連の署名に比べ、伸び悩む。「原爆は72年前の出来事だと思われているからかもしれない。切実な今の問題なんだと伝えたい」。谷口さんたち被爆者が訴える動画の発信など次の一手を探る。(水川恭輔、田中美千子)

(2017年1月16日朝刊掲載)

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