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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年] 被害の全容解明 諦めない

 1945年8月6日、米国が広島に投下した原爆は市民の命を無差別に奪い、街を壊滅させた。被害の全容は、75年がたった今も分かっていない。広島市が名前をつかめている被爆直後の犠牲者は、推計値と数万人もの開きがある。おびただしい数の遺骨が遺族の元に帰れないままだ。さまざまな証言や資料に光を当て、埋もれたままの悲惨な事実に迫る努力は、やり尽くされてはいない。「あの日」消し去られるまで確かにあった命、街の姿を見つめ、ヒロシマの「空白」に向き合う責務を確かめたい。

埋もれた名前

実態調査 怠った国 全滅した世帯・軍関係者…把握の糸口に

 約14万人―。1945年8月6日から同年末までの広島原爆の犠牲者数は、原爆資料館(広島市中区)や多くの教科書でこう説明されている。広島市が長崎市とともに76年に国連へ提出した文書で示した推計「14万人(誤差±1万人)」が基だ。研究者が広島市の被爆前の人口を推計し、被爆後の政府の人口調査と比べるなどして算出した。

 ただ、被爆時は被害を把握する役割の行政機能が壊滅しており、確たる裏付け資料はなかった。そこで、市は79年度、犠牲者名を積み上げる「原爆被爆者動態調査」を開始。遺族からの届け出を基に名前を記す市原爆死没者名簿をはじめ、死者が記録された様々な資料を統合してきた。

 ただ、昨年3月末までに確認できたのは計8万9025人。推計値と数万人もの開きがある。

 今も名前が「空白」の犠牲者が多くいるとみられながら、近年、調査に大きな進展はない。どんな人が埋もれがちなのか、把握の糸口は―。取材で探った。

 昨年、ようやく調査に反映された青木富美さん、長女芳美さんら家族4人は、富山県内の親族が広島を観光したのをきっかけに市原爆死没者名簿へ申請して確認された。爆心地近くの自宅で被爆し、一家が全滅していた。核兵器の非人道性それ自体が、把握を阻む壁となっている。広島県外に名簿制度をどう周知していくかも課題となる。

 同時に、国が全容調査を怠ったという背景を見過ごせない。調査から漏れていた鎌田弥一郎さんは、軍の任務で単身で広島に滞在していて被爆死し、遺族は自宅のあった京都市内にいた。広島は「軍都」だっただけに、同様に広島市が県外の遺族の情報を得られていない例は多いだろう。

 日本が植民地支配していた朝鮮半島の出身者も把握できていない犠牲者が多いとみられている。韓国の被爆者団体の資料をひもといた結果、市の調査でつかめていないままとみられる犠牲者を少なくとも11人確認できた。

 学校や企業の死没者名簿に残らない未就学児は、被害をつかみにくい。被爆者が残した手記や絵には8月6日に生まれ、名前を付けられる前に被爆死した赤ちゃんや、母親とともにそのおなかの中で命を奪われた胎児が記録されていた。

 「氏名不詳者多数」―。平和記念式典で原爆慰霊碑に奉納される市原爆死没者名簿には、今もそう記されている。推計だけではなく、まさに悲惨な実態として犠牲者一人一人の存在を記録し、積み上げる努力がこれからも被爆地に問われる。

帰れぬ遺骨

悲惨さ物語る「7万体」 遺族の元へ 取り組み継続を

 平和記念公園の原爆供養塔の地下納骨室には、「約7万体」とされる遺骨が安置されている。爆心地近くにあり、多くの遺骨が集められた旧中島本町の慈仙寺跡で、1955年に建立された。おびただしい数の遺骨は、「あの日」に家族や地域と断ち切られた悲惨さと、壊滅した街の混乱を物語る。

 原爆の熱線は、多くの市民を身元確認もできないほどに焼き尽くした。救護所として負傷者が運び込まれた学校の校庭などが臨時の火葬場となった。戦後、広島市中心部の工事現場や負傷者1万人が運び込まれたといわれる似島(現南区)などで掘り起こされた遺骨も、供養塔に納められてきた。

 市は、ごく一部の名前の分かる遺骨の遺族を捜してきた。今年も7月に814人の名前が記された名簿のポスターを全国に送った。ただ、2010年度以降で遺族の元へ返すことができたのは、17年を最後に2例にとどまる。取材班は、行政の記録や遺族の手記を調べ直すことなどを試みた。

 「鍛治山はる」さんは、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の登録情報に漢字違いの名前を見つけたことを契機に、遺族との間で返還への調整が始まった。全国の手記を洗い出し、「麓仁和子」さんと同姓同名の犠牲者の遺族が東京にいると分かった。原爆孤児となった後に親族を頼って移った岡山県内で暮らす男性は、父に間違いない名前があると知りながら「広島の墓」として見守っていた。

 名簿にある遺骨の遺族を捜し当てる手だてはまだある。一方で、身元不明の原爆犠牲者の遺骨は供養塔のほかにも、市内の寺院や県北の山あいなど様々な場所に眠っている。それだけ今も、遺族の元に帰ることができない犠牲者と、遺骨を手にできない遺族がいる。その埋まらない「空白」の現実、無念を忘れてはならない。

記憶つなぐ写真 散逸危機 サイト開設 受け皿に

 広島の街は原爆投下で、爆心地から2キロ以内がほぼ全壊・全焼した。被爆前の姿を知ろうにも資料自体が焼かれており、現存する写真は限られる。市民の手元などに残る写真を集めて記録の空白を埋めようと、中国新聞社は1月にウェブサイト「ヒロシマの空白 街並み再現」を開設した。

 これまでに千枚以上の写真をグーグルマップ上に公開している。市民から、本通り商店街や現在は平和記念公園となった旧中島地区の日常や、原爆の犠牲となった家族との思い出が刻まれた被爆前の写真データが提供されている。

 被爆建物が残る陸軍被服支廠(ししょう)など「軍都」の戦時下の空気が伝わるカットもある。1930年ごろから45年までの写真を、撮影時期の順を追って見ることもできる。

 広島市内の被爆前を捉えた写真を募集中です。写真は、データをスキャンした後に返却します。

 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター☎082(236)2801

peacemedia@chugoku-np.co.jp

(2020年8月6日朝刊掲載)

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