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社説・コラム

[ウエーブ WAVE] NPO法人「ピース マインズ ヒロシマ」理事長 川野登美子さん(78)=広島市中区

団結と継続 次代に語る

 両手を広げ、折り鶴を掲げるブロンズの少女。平和記念公園(広島市中区)の「原爆の子の像」のモデル、佐々木禎子さんは幟町小(中区)の同級生だった。中学校の3年間、街頭募金に立ち、建立運動に没頭。1958年5月の完成につなげた。そして今、市内の学校を訪れて「さだちゃん」への思いを語っている。

 禎子さんとはお互いの家を行き来する仲で、お人形遊びより、一緒に缶蹴りや陣取り合戦、リレーの練習に夢中になった。だが卒業目前の55年2月、禎子さんは白血病を発症し入院する。

 広島赤十字病院へ見舞いに行くと、必ず1階まで見送ってくれた。別れ際の寂しそうな顔が忘れられない。禎子さんが55年10月に他界した後、白血球数を自ら書き留めていたことを知った。「どんな思いで鶴を折り、あれを書いていたのだろう」。考えると今でも胸が詰まり、涙が止まらなくなる。

 中区堀川町で仏壇店を営む両親の元、5人きょうだいの次女として生まれた。75年前、疎開先の牛田町(現東区)で被爆した。県立広島第一中(現国泰寺高)3年の兄横田励吾さんは、爆心地から約900メートルの校舎内で大やけどを負い、翌日に「僕は残念だ!」と叫んで息を引き取ったという。

 短大を卒業後、近くの金座街にあった布団店の川野哲生さん(85)と結婚。2人の子を育てながら家業を手伝ううち、仕事にのめり込んだ。婚礼布団の販売から婚礼ビジネスにシフトし、いち早くレストランウエディングを始めるなど、順調に売り上げを伸ばした。

 転機は、被爆50年の95年。市内で開かれた中小企業家同友会の全国女性部交流会で「平和と経営」をテーマに証言を頼まれた。3歳だった被爆時の記憶はない。悩んだ末、母ミサヲさんに相談した。国泰寺高の慰霊碑に連れて行かれ、銘碑に刻まれた励吾さんの名前をなでながら「さだちゃんとお兄ちゃんのために話さにゃいけん」と背中を押してくれた。

 以来、年20回ほど証言に立つ。12歳の頃の心に戻り、言葉一つ一つに持てる力を注ぐ。「命の大切さ」とともに伝えたいのは、建立運動で得た「団結して継続すれば、成し遂げられる」との思いだ。5年前に会社の役員を退任し、今年に入って仲間とNPO法人を設立。「平和活動に身をささげる」決意を固めた。原爆で両親を失った哲生さんも、闘病をしながら応援してくれている。(桑島美帆)

かわの・とみこ
 広島市中区出身。1963年に安田女子短期大を卒業後、結婚を機に「かわの」入社。83年から専務。被爆50年の95年に証言活動を始め、2013年に「原爆の子の像 六年竹組の仲間たち」を自費出版した。海外の子どもたちに折り鶴再生紙のノートを提供する「ピース マインズ ヒロシマ」の理事長も務める。

(2020年8月7日セレクト掲載)

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